| 2002年12月31日(火) |
五木寛之「運命の足音」を読む |
年末恒例。仏様にお参りして、家族で膳につき、御神酒を回す、乾杯をして、お年玉やら年末のプレゼント交換という行事を済ませて。 私は年越しの鮭の皮が好きで、「癌の元」とかいわれつつ、ジトリンと脂ののった鮭の皮でビール、毎度のこと。 紅白が始まり、自分の部屋にテレビがあるせいか、それぞれの部屋でごろついてテレビ、居間は弟夫婦のみ。 私は、ハーゲンダッツを食べながらほろ酔い読書である。 至福。 本は、五木寛之「運命の足音」。昔は五木の大ファンだった。人生系エッセーに走り出してからすこし違うかな・・と距離を置くようになったが。 でも、これは、五木が衝撃の告白をしたとかで、夏の頃話題になっていて、アムステルダムできいた本なのだ。 なにが衝撃の告白かというと、引き上げ途中ででなくなったお母さんのこと。 ロシア人兵士が踏み込んできて、体調を崩して寝込んでいたお母さんを布団から引きずり出して踏みつけにしたこと。強姦をするために来たのだが、彼女が病気とわかって、窓の外に放り出したこと、自分とお父さんはそれを見ていながらなにもできなかったこと。特にお父さんはちょうどお風呂にはいっていて、自分の恋女房にロシア人兵士どもが乱暴狼藉を働くをただ見つめていなければならなかったこと。 その後、お母さんは、ほとんど食事を拒否するようにしてなくなったこと。お父さんは、戦後アル中になり、喀血してなくなった。五木はそれが彼なりの責任の取り方だった(優しい・・)と見つめているのだ。 ロシア兵がいなくなった後放り出された母を父と二人で部屋に戻したが、しかし、母は一言も語らなかった。ただ、半眼でふたりを見つめただけだった。そして、いっさい口をきかず、食事もせずに逝った。 その母の声がこのごろ聞こえるのだという。 「いいのよ」 詳しくは書かないが、重い内容である。 書きたい、書かねばと思っていたがかけなかった・・・でも母がいいのよ・・といってくれているような・・・ということらしい。 彼がなぜ親鸞に走ったのか、なぜ子供を作らなかったのか・・・彼を読んでいた頃のなぜ、がみな「ああ、そうだったの」と腑に落ちる内容だった。
さらに彼はこの本の中で「キリスト教的グロバルスタンダード」言い換えると人間至上主義みたいなモノが歴を左右してきた。これが、地球を世界を危うくしていると書いている。今も世界を危うくしているのはモスレム圏×キリスト教圏ということを考えれば、そうかな、と。 少なくとも仏教は十字軍のような己優位のことはしなかった。モスレムのような、剣を持っての布教はしなかった。 神も仏も石も蛇も何でも拝む日本の宗教は野蛮、原始といわれてきたが命を同じ目線で眺める見方・・・がもっと見直されてもいい、といったことも書いている。 これもまた、わかる気がする。
今年も終わる・・こんなふうに読書してすごす幸せかな。
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