おひさまの日記
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2006年01月14日(土) Oshoトランスフォーメーション・タロット「慈悲」

今日ひいた一枚。


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Oshoトランスフォーメーション・タロット

50. 慈悲

慈悲
Jesus and the money-changers

 慈悲は、他人への同情でいっぱいになった血のにじむようなハートを持っていることではありません――
 慈悲とは、状況に覚醒をもたらすのに必要なことであればなんでも喜んでやるほどの、愛の深さです。

 イエスの生涯で起こったある状況を思い出してほしい。
 彼は鞭を取って、エルサレムの偉大な寺院に入って行った。
 イエスの手に鞭?
 これこそ仏陀が言ったことの意味だ――「怪我をしていない手は毒を扱うことができる」。
 そのとおりだ、イエスは鞭を扱うことができる。
 問題はない。
 鞭が彼を圧倒することはありえない。
 彼は油断せずにいる。
 彼の意識はそれほどのものだ。
 エルサレムの偉大な寺院は泥棒たちの場所になっていた。 
 巧妙な盗みが行われていた。
 寺院のなかには両替人たちがいて、彼らは国全体を搾取していた。
 イエスは独りで寺院に入り、彼らの机――両替人たちの机――をひっくり返した。
 彼らの金を投げ捨てて、たいへんな動揺を引き起こしたために、両替人たちは寺院の外に逃げた。
 彼らは大勢いたが、イエスは独りだった。
 だが、彼はそれほどにも激怒していた。

 さあ、これはキリスト教徒たちにはずっと問題だった。
 それをどう説明したらよいのだろう?――というもの、
 イエスは鳩、平和のシンボルだということを証明しようとするのが彼らの努力すべてだからだ。
 その彼がどうして自らの手に鞭を取りえたのだろう?
 どうして彼は、両替人たちの机をひっくり返して、
 その両替人たちを寺院の外に放り出すほど怒ることが、激怒することができたのだろう?
 そして、彼のエネルギーは吹き荒れていたにちがいない。
 彼らは彼に顔を合わすことができなかったのだ。
 僧侶たち、商人たち、それに両替人たちはみな「この男は狂ったぞ!」と叫びながら逃げた。

 キリスト教徒たちはこの物語を避ける。
 もしあなたが仏陀のこの経文を理解したら、それを避ける必要はない。
 怪我をしていない手は毒を扱ってもかまわない
 無垢は傷つくことはない
 イエスは絶対的に無垢だ!彼は暴力的ではない、破壊的ではない――それは彼の慈悲だ。
 それは彼の愛だ。彼の手にある鞭は、愛の手にある鞭だ。


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少し前、私は、ある人から不快なアプローチをされた。
それは、私のエゴでの判断のみならず、
一般的に考えてもマナーをわきまえないものであり、
自分の考えや願望だけを一方的に押し付けて来るかなりイタイものだった。

どう対応したものか悩んでいたけれど、
このカードを引いて決まった。
毅然とした態度で臨もう、と。
もちろん、ある人からのアプローチに反応した私にエゴがゼロとは言えないが。

私は、悪く言われたり、嫌われたり、攻撃されたりするのがこわくて、
形相を呈することもある「慈悲深い人」ではなく、
鳩のような「いい人」になろうとしていた。

もっと自分を信頼しようと思った。



このカードの言うところは、
気に入らないことに対しては、片っ端から腹を立てて、
相手に食ってかかろうということじゃない。
それなら幼稚園児でもできる。
そこがとても重要だ。


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