おひさまの日記
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| 2005年12月11日(日) |
人はひとつところにとどまることができない |
自分の真実や思慮深さ以外を源泉としたものから、 言葉を発したり、何かをした時、ものすごく苦しくなる。 それは自分のハイヤーセルフの部分から離れるということなのだと思う。 人は自分でなくなった時、そこに痛みを伴うのだろう。
痛みが癒され離れていった後は、 自分の中がクリアになる分、それまであることさえ気づかなかった 自分自身のよどみみたいなものが明確に見えることがある。 それは急にじぶんがよどんだのではなく、 自分の中からよどみがなくなったからこそ、残っているよどみがよく見えるのだと思う。
癒しが進み、成長するほどに、人は自分に嘘がつけなくなってくる。 この嘘とは、ハイヤーセルフの部分に背く、という意味合いの嘘、自分の真の姿を偽るということだ。 ある意味とてもつらいプロセスかもしれない。 それまで馴染んだ生き方を変えていくことになるからだ。 でも、それをしないともっとつらいんだよね、居心地悪くて、違和感あって、うまくいかなくて。
だから、人は、葛藤しながらも変化していくのだろう。 人はひとつところにとどまることができない。 大きな川の流れの中に乗せられた小舟のように。 私もそのひとりだ。
意識して、真実や思慮深さからの言葉を発し、何かをする人でありたいと思う。 そこには常に、それを妨げる恐れや、 自分を責める想いから人を責める自分が存在するけれど、 それを越えて振る舞える人になりたい。
どんなことでもそうだ。 その状況やその人に対して最もよいものと、 自分が、言いたい、したい、という衝動は、往々にして別のものだ。 その衝動は痛みからのものであり、 その痛みが訪れないようにもがく、生きている間に身に付いた、 必死の作戦みたいなものなのだ。 その痛みをやさしく受け止めつつ、成熟した部分の自分が、 その状況、その人への、最善を尽くせるようになりたいと思うのだった。
もしそうできたのなら、その後の結果がどうであろうと、悔やまれることはないだろう。 たとえ苦しい感情に襲われても、それさえも受け入れることができるだろう。
さらに、さらに、成長したいと強く願う。
そういう自分でいること、 また、そういう自分になれずにもがく自分でいること、 その狭間で揺れる自分でいること、そのどれもが人生の中で楽しい自分だ。
生きることの醍醐味とは、 成長し、その先にある、痛みをひっくるめての人生の味わい、 心地よさを満喫することではないかと、最近強く思う。
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