おひさまの日記
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2003年02月06日(木) 大いなる力には大いなる責任が伴う

ある一件で、サイキック能力は恐いなぁ、と思った。
厳密に言うと、サイキック能力を持つことが恐いと思ったのだ。
その力を過信すると、
その力にに溺れると、
大切なことを見失うからだ。

霊感が強かったり、サイキックだったりすることは、ある意味辛い。
私だって好きでこうなわけじゃないのよ!そう言う人もいる。
そう言いながら、実は、本人も気付いていないけれど、
無意識にそれを自分のステイタスの象徴として誇示していることもある。
そして、その無意識に、ってのがイチバン手に負えないのだ。

古今東西、あらゆる歴史上の人物を見てもわかる。
力を持つ者は、その力を過信し、その力に溺れがちだ。
そして、その力が自分だと思いがちた。
でも、それはあくまで自分の持ち物なのであって、自分ではない。

サイキック能力もそうだ。
自分に備わっている力は、ひとつの道具のようなものだ。
大切なのは、その備わっている力を「いかに使うか」なのだ。
それを自分の存在そのものだと勘違いすると、
私達は自分を見失い、人を傷つける。

たとえば、いわゆる霊感がとても強く、
人の生き死にまで感じ取る人がいるとする。
そして、その人が、誰かの死を察知して口に出したとしよう。
それを聞いた人やその家族はどう感じるだろう?
死が避けられないものなら、それがわかっていても、
黙っているのが人としての優しさではないだろうか?

だから恐いのだ。
その使い方を知らない人がそれを持つ時、
それは、人を不愉快にしたり、傷つけるものにしかならない。
エゴを誇張する醜いものにしかなり得ない。
見えたり、聞こえたり、感じたりすることがスゴイのではないのだ。
それを上手に使って人を救えたり、心地よくできた時、
時にはあえて使わないでいることで、それは初めて素晴らしいものになる。

私は昔サイキックに憧れた。
それがない自分は足りない人間だと思っていた。
でも、今はどうでもよくなった。
あってもなくても人は素晴らしくなれることを知ったからだ。

自分の持つ力をデフォルメし、周囲にアピールするのは、
意図的にしろ、無意識にしろ、それにこだわっている証拠だ。
それが自分のただの持ち物と分かっている人は、
それを利用することはあってもこだわらないのだ。

映画「スパイダーマン」の中にこんなセリフがあった。
「大いなる力を持つ者には大いなる責任が伴う」

私達はまず裸の自分を見据える必要があるのだ。
裸の自分が何を持ち、その持ったものをどう使うか、それが問題なのだ。

これは、サイキックだけでなく、すべてのことにおいて言える。
あらゆる力や地位、ステイタスを有するすべての人間に言えることだ。

散弾銃を暴発させる子供みたいにだけはなりたくない。
ましてや、その流れ弾には当たりたくない。
私だって人間だから。
当たれば痛いのだ、血も流れるのだ。


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