あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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二村ヒトシ氏の恋愛指南本は、「自分で自分の欲求や欲望のかたちをつかむ(どういう形でどういう種類のことをしたいのか)」を論旨の出発点におき、 それはおのずと関わりにおける相手のありようと自分の力量・容量をみつめる営みへとなるけども、 そのプロセスの一端としてのキャバクラやフーゾクの接しかたの位置付けを試みている。
ここで乱暴な飛躍をすると、いー年こいたオトナがアイドルにハマってうんぬんみたいな発言は正当だけど、 いー年こいたヲタクが、ヲタク市場のターゲットになる構図が成立している世界って、 その世界なりの教養(=ある程度の層に共有されている価値認識)しかない世界なのではと問い掛けたものの、 そんな器のヲタク状況になんざ興味はありません! というのはこれまたふつうのことなんだろうから、 その状況を照らし出すのはヲタク自身の仕事なのだろう。
なんか凄いのっぺりしてて、質感がどれも一緒なのは人間としてセクシーじゃないというか もうちょっとスケベな気持ち、人間であって欲しいというか、 人間に触るっていうのは、緊張するでしょう。そういうもんを音楽にも感じたいけど というようなことを言っていたのは豊田道倫だけど、 それは岸野さんいうとこの想定してないノイズ的な出会いに目がいったときの直観や判断力だったり、 ライブにおいて、お客さんの盛り上がりや音楽的なだけではない日常的な発見が欠けていたパズルのようにハマったりするために作っておく 少しだけの余白というウッドマンの意見や、 橋本治いうところの「自分の部屋に薔薇の花を持ってきてくれる人間の存在」だったりするのでしょう。
精神的にマジヲタめいてるというのは、自分の感情や理性めいたもの(要は自意識)に過剰ぎみにおぼれているという状態で、 それを癒すのは感情や自意識の過剰ぎみな存在を認めた上で双方のマッチングを目指す路線だろうけど、 岸野さんならバイトで海外のビッグスターにインタビュアーとしてバンバンあってごく日常的な話題ばかりしていた経験を踏まえて 「もっと毎日でも会って慣れたほうがいいって気がするね」と発言し、 ならば「会いにいけるアイドル」以上に距離の近いアイドルでしょっ(ビシィ ということで、 ロビータイム命なDDガッツキ厨なスタンスも自覚的に回数を重ねて、つき詰めてゆけば、 産業としてのアイドルシーンをフラットに照射しうる、というのは自己正当化の言い訳であり、 ひいてみれば葱を背負った鴨を目指すようなものではある。
でも、やるんだよ!(爆)
ソーシャルネットワーキングって、繋がるための皆との同席性の感覚であり、ひらたくいえば「馴れ合い」なのだろうかと、 捻れ気味の感性のフィルターを通せばソフトファシズムだ!と鼻息も荒くもなるが、 ならば佐藤伸治ばりに「みんなが夢中になって暮らしていれば、別になんでもいいのさ」とアナーキーなスタンスの一つでもとろうかというとこだけど、 楽しい居心地の良さが恋しく無いと切り捨てるのはムリが生ずるし、 なんだかんだも詰めれば結局は、良いかたちでいちゃいちゃしたいですよ、とあまりに子どもっぽすぎる意見であると承知しつつ そこに着地するけど、 個人主義なんてものが実在してるか知らないけど、それが実在しうるのは紆余曲折の生じうる平坦でありえない凸凹な状況での、 自分を持ってるどうでもよき趣味嗜好という気持ちの支柱がある景色のスケッチ作業であり、 どうでもいいからなんでもいいからはごくありきたりな価値相対論におさまる予感もよぎりつつも、 これだけは我慢できないなにかの確認の機会とそんな自分も興味を向けられる場面の更新と、 どうでもなんでもよきに追いやられうる各々の違いという大原点の確認の、 せざるをえないリロード作業なのかもですねん。
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