親友とか、先輩とか
いろいろな方々が出てきているので、
ちょっくら、ここいらで歴史の授業でもしましょうか?
秘書です。皆様、いかがお過ごしか?
【1980年】
この歳に、生を受けたと記録には残っている。
ただ、本人が【22歳】の時に受けた新人研修において
「お子さん、おいくつですか?」
「37歳に見えた?」
などという記録が残っているため、真相は、いまだ研究対象となっている。
【1986年】
第1回、秘書検定が実施される。
もちろん、秘書とは無縁の世界なのではあるが
秘書さんにとっては、大学受験で、慶応・早稲田を受けるようなもの
というような認識はもっている。
【1988年】
小学校当時、どういういきさつか忘れたが
この当時は、高安くんという同級生と、よく遊んでいた記憶がある。
この付き合いは、小学校を卒業するまで続くのであるが
放課後に野球をやってても、【キャッチャー】役がやたら多かったと思う。
【1990年】
自転車に乗って走っていたところ
思いっきりこけてしまい、頭を道路脇の石にぶつけてしまい
血を流しつつも、家に帰って、親にめちゃくちゃ心配される。
なお、大事には至らず、翌日には学校に登校していたが
この事件がきっかけで、いまの秘書さんがあると
多くの専門家が分析をしている。
なお、この後、サッカーをやりはじめて
誰かのシュートを顔面ブロックしたおかげで
【石崎くん】というあだ名が、数日間続いたと正史には残されている。
【1993年】
小学校を卒業し、ここから法政の皆様に出会うことになる。
【法政の校歌】は、いまだカラオケで歌うことも出来るであろう。
とは、2004年元旦の新年会での本人談。
吹奏楽部に1年在学するも、文化部の中の体育会系なところに疲れ
あっという間に、帰宅部へとクラスチェンジする。
また、この年は、すごいこと続きでありまして・・・
まずは、林間学校的なもので泊まった旅館なのだが
うちらが泊まってから、2週間後
【中性洗剤と食用油】を間違えて、集団食中毒が発生という
歴史に名を残す出来事が発生。
この記事をみた、同級生からは
「あの旅館、外国人が2・3人いたから、そいつらじゃねぇ?」
という憶測が飛び交うも、真相にはクビを突っ込んではいけない。
続いて、スキー合宿というものがあったのだが
この年、稀にふる雪と、バス故障のために
本来5〜6時間でつく予定のところを
20時間かけての行軍となり、スキー合宿どころではなくなる。
手元にある史料では、そのバスの中で
同級生の子達と、将棋やUNO・トランプで戯れたとあるが
UNOをやっている最中に「ダウト!」と間違えて叫んだことが由来し
いまに至るまで【ハラグロ】の称号があるのではないか?と推測される。
【1994年】
いまや、秘書を語る上ではずせない存在となっている
親友Jと同じクラスになる。
後にも先にも、こいつとは同じクラスになったことがないのに
ここまで、関係が続くとは、本人達も思っていなかったはず。
なお、出会った当時は、通学途中に
よく、親友から手を出してくることがあり
最初は、ガマンしていた秘書さんが、
そのうち、調子に乗るんじゃねぇ〜といった感じで
殴り合っていた記憶が、多大に残ってますが、どうですか?
その際、ガマンが限界に達するかどうかの目安として
【日本野鳥の会の皆様による集計結果は〜】
という、枕詞をよく使うようになる。
なお、この年から、英語の成績が急降下し
いまに至るまで「日本語がちゃんと喋れないのに英語なんかできるか!」
と、逆ギレもいいところな理由で、英語が嫌いになり、歴史に惹かれる。
【1996年】
いわゆる、エスカレーター方式で、法政二高に進学。
【文芸・数研ライン】と言われた、文化系クラブ【数学研究部】に入部。
3年生の先輩と、1年生の自分達だけという稀有な部活であった。
なお、この歳。
秘書Kを名乗ったのが、有力な説となっている。
先輩に【秘書N】と名乗っていた方がいて
その先輩を崇拝していた私は【秘書】の二文字を譲っていただいたのだが
まさか、ここまで、引っ張ることになるとは夢にも思わなかった。
ちなみに、親友Jが【伊佐美 雪之丞】なる
事情をしっている秘書にとっては、こっぱずかしい名前を名乗るのは
まだ、先の話である。
この年、オリックスブルーウェーブ(現:オリックスバッファローズ)が
優勝したこともあり、生徒会に入っていた秘書さんが
当校卒業生で、キャッチャーとして活躍されていた【高田誠氏】に
電話でのインタビューをすることに成功。
本当に、ありがとうございます。
松○アナ:「そして、今日のその時がやってくるのであります」
【1997年】
忘れもしない。高校2年。
「いわんや」という言葉を多用する、歴史の先生にあったのが全て。
このときに、【歴史学】を学ぼうと決心をする。
「歴史を学ぶんだったら、京都へ行け」
と、言われて、はや7年。まだ、1回もいったことがないのであるが・・・
なお余談であるが、翌年の担任(体育担当:ラグビー部顧問)に
「1度は、歴史を学ぶために京都に行きたいのですよね。」
と言ったら、
「京都よりも、地元の歴史を学べ」と、さくっと否定される。
これにより、根強く体育会系嫌いが続いてしまうのであるが・・・
でも、クラスの中心が体育会系だっただけに
クラスとしては、まとまりがあって楽しかったけどね。
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