月の輪通信 日々の想い
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快晴の気持ちのいい朝。 子ども達を乗せて剣道の稽古に送る。 久しぶりに窓なんか開けたまま走りたいような、陽気だった。 オニイとゲンも快調にダジャレを飛ばし合ったりして、ご機嫌な気分。 「ねぇねぇ、昼ごはん何食べようか。稽古終わったら買い物に行く?」 と意気揚々と車を走らせていた。
行く手のセンターライン上に襤褸切れのようなものが転がっていた。 「あ、見たくないな」 と、嫌な予感がしたときには、既にその物体が車に轢かれて絶命した犬だか猫だかの動物の屍骸で、赤いリボンのように見えたのは潰れて毀れだした血だか内臓だかだと言う事を視界の隅に捕らえてしまっていた。 すぐにその場は通り過ぎて 「怖いもの見ちゃったよ。」 とカーラジオのボリュームを上げたけれど、助手席のオニイからの返事はなくて、後部座席のゲンが「なに?なに?何のこと?」と聞き返してくる。 「いまね、道路で犬が轢かれて死んでたのよ。」 と説明して話題を変える。 けれどもやっぱりさっきまでのお気楽なダジャレ合戦の空気は消えうせて、何となく言葉すくなく剣道場である小学校の門をくぐった。 車を降りようとすると、助手席のオニイが顔を伏せてうつむいている。 「どうしたの?頭痛いの?」と声をかけたら、 「いや、大丈夫」と答えるオニイ。 「風邪かな?」と聞くと「やっぱりな、僕ああいうの見ちゃうと、弱いねん。頭、痛くなっちゃった。」と沈んだ声がかえってきた。
やっぱり助手席のオニイもアレを見ちゃったんだな。 すっかり体も大きくなって、いつも強がって皮肉屋を装っているような近頃のオニイにも、轢死した犬を見捕らえて、怖くなったり気持ち悪くなったりするナイーブさが残っているのだということにちょっとした驚きを感じた。 そういえばうちの子供たちは小さい頃から、ホラー映画やら過剰な流血シーンの表れる映像やゲームには寄り付こうとしない。 根が臆病なのは両親譲り。 だから今朝のような気分のいい朝に、突然何の予告もなく痛々しい惨劇の痕跡を見せ付けられて激しく落ち込むオニイの気持ちもよくわかる。 けれどもその一方で、刺激的なスプラッター映像を含んだゲームや恐怖映画があちこちで取りざたされる昨今、生意気盛りの中学生の男の子であるオニイにこのナイーブさ、臆病さと言うのはどういうものなんだろう。
もしかしたら路傍に轢死した犬の屍骸をみつけた時、「かわいそうに。そのまま放っては置けない」と立ち止まって、自分の衣服が汚れるのも構わずに屍骸を人目に付かない所に埋葬してやるような子が、本当は「強い男の子」なのかもしれない。 それとも「すっげぇの見ちゃったよ。内臓がバーッと飛び出ちゃってさ・・・」と面白がって人に触れ回ったり出来るくらい大雑把な感性を持った子の方が、結構図太く生きていけるのかもしれない。 それでは、理不尽に突きつけられた残酷な死の現実を、嘔吐したくなるような頭痛という形で拒むオニイのピュアな感性は、ただの弱さ、臆病さに過ぎないのだろうか。
それを臆病と言うならそれもいい。 現実にある流血や残酷なものを、映画やゲームの残虐シーンのように自分から好んで求めるという現代の多くの少年達の荒れた無神経さより、オニイの純粋な臆病さの方がまだいい。それは多くの大人たちが身につけている悲惨な事柄に目をつぶって見なかったことにする方便を、オニイがまだ確実には持ち合わせていないということなのだ。 今の彼に、「あんなものを見たくらいで落ち込むな。さらっと忘れてやり過ごす強さを持て」と言う事も出来ない。 「かわいそうだと思うなら手を差し伸べる勇気を持て」と言う事も出来ない。 傷つきやすく、逃げ道を知らない。 そういう純粋さもまた、14歳のオニイの等身大の今の姿だ。 それもまた未熟な若者の強さなのかもしれない。
「帰りは別の道から帰ろうね。」 気を取り直してオニイは重い防具袋と竹刀を担ぐ。 頑張っていっておいで。 心も体も強くなれ、オニイ。
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