てらさき雄介の日記
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2015年04月20日(月) 大田実司令官の‘遺言’を改めて

これまでも何度か書いている同じ話である。しかし米海兵隊普天間基地の辺野古移設について、政府がまさに独善的な対応をしている今、改めて私の考えを述べていきたい。

沖縄の米軍基地を考える時に、いつも頭から離れない言葉がある。大日本帝国の大田実現地司令官が自決する前に、本土に向けて打った電報である。現地で初めてその記念碑を見たとき、大きな衝撃が自分の中に走った。背筋が寒くなった。今もその瞬間を忘れてはいない。

以下通信文

『沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊を申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。』

最後の「特段の配慮」をしているだろうか。現場の声に耳を傾けているだろか。同じ状況が神奈川、そして相模原であったらならと想像力をはたらかせているだろうか。否。他人事である。

民主党政権は「県外移設」を実現出来なかった。あの3年3カ月の中で最大の失敗だった。しかし安倍政権はもっと酷い。もっと丁寧な対応が出来ないものか。それこそ“上手くまとめる”のは自民党の得意技ではないか。あえて沖縄県民の逆鱗に触れている。まずは作業を停止すべきだ。

その上で二つ要求したい。一つは“お願いする”という態度を徹頭徹尾持つこと。政府の言う「基地で儲かっている人」はわずか。それ以外の人の方が多い。そして何より金よりも大切なモノを踏みにじまれているのだ。

もう一点。何故辺野古移設しかないのかを、もっと具体的に説明して欲しい。“アメリカがそう言っている”だけではダメ。どのように日本の安全に役だっているのか、多少は調査研究してきた私も理できていない。

現段階では翁長知事を全面的に支持する。いかに安全保障政策とはいえ、ここまで地方自治体の意志を無視するのは許し難い。地方議員のひとりとして、沖縄県を支援する決意だ。近いうちにまた訪れてみたい。

●今日一日

【午前】
お休み

【午後】
地域まわり/中央区内
自衛隊募集相談員会総会&委嘱式/中央

【夜】
団体訪問/南区相武台
下九沢地域振興会例会/南橋本


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