DOTFAMILYの平和な日々
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2012年07月09日(月) 葬式騒動:その11(最終回・・・多分)

多分「葬式騒動」最終回です。私の愚痴を読み続けて下さった方々、どうもありがとうござました。些細なことでムカッとする修行が足りない私ですので、お見苦しい愚痴をだらだらと書いてきました。自分の鬱憤を晴らすために書いた「葬式騒動」です。浄土真宗や東本願寺に対して失礼がございましたら、誠に申し訳ありませんでした。浄土真宗、及び東本願寺に対して批判したり茶化したりする気持ちは全くございません。そのように受け取られる文章がございましたら、それは私の表現がいたらないためです。また、不愉快な思いをなさった方がいらっしゃいましたら、この場を借りてお詫び申し上げます。

そうそう、それで思い出した。(どれでだ?)ダンナの二番目の弟の嫁が言った「葬儀の最中にスライドショーをやるというアメリカ式の葬式は非常に評判がいいので、来月から日本の東本願寺でも取り入れることになった」という件だが、ロスアンジェスルの東本願寺に問い合わせたところ・・・

「浄土真宗は檀家がとても多いので色々な方がいらっしゃいます。お寺もたくさんありますので、全て知っているわけではありませんが、浄土真宗全体、あるいは東本願寺でそのようなことに決まったというお話は聞いておりません」

ということであった。

嘘をついてまで自分勝手なことをしようという気持ちは、私には理解できない。でも、私には理解できない人はたくさんいるわけだし、皆が同じように考える必要もないのだから、ムカッときたとしてもそれは基本的には私の問題なのだ。大抵の場合は、グチグチ愚痴ってお終いになる。しかし今回は最後に、これだけは許せないという事件が起こった。

次男のスライドショー葬式計画を台無しにした責任者は多分ダンナと私である。だからダンナと私が憎まれたとしてもそれは仕方がないことだと思う。しかし、葬儀の日までにダンナは極悪非道だから決して口をきかないように、という御触れが親戚中に広まっていたのだ。特に義妹の親戚は、ダンナが挨拶をしても完全無視。ダンナの甥や姪も、普通ならダンナを見ると自分から寄って来て挨拶をするのに、目も合わせようとしない。すっげえテンションであった。

さて、葬式、お食事会、墓地での供養の後、身内だけが義母の家に集まった。遠くから来ている親戚もいるし、このまま解散というのも名残惜しいと考えたのだろう。義母も久しぶりに自分の姉とゆっくり話せて嬉しそうだった。

犬のエサをあげなくてはならないので、私たちは一旦家に帰った。だから義母の家に着いた時にはほとんどの人達はもう集まっていた。やはり、ダンナの上の弟夫婦はもとより、姪や甥もダンナのことを完全に無視。チラチラと横目でダンナを見ている。ダンナと私が義母の家に行った時、ダンナの甥や姪は年寄りに家の中の居心地のいい場所を譲って外で談話していた。私たちが来たことには全員が気づいた。それでも「ハイ」の一言も無い。近い親戚だけの集まりだけに、そのテンションはお寺以上であった。

これってイジメだよな。アメリカにもあるんだなぁ。

ところで、愚息は私たちとは別行動であったので、私たちよりも先に義母の家に行き、私たちが着く前に帰っていた。義母の家で従兄弟達と話していた時、愚息が仲間はずれにされるということは無かったそうだが、愚息がいつもの冗談で何かやったか言ったかした時、次男の娘から

「あなたのお父さんが意地悪だからって、あなたまでマネしなくてもいいでしょう」

と言われたそうである。

世の中には色々な考え方をする人がいる。私は自分と全く違う価値観を持っている人でも悪い人だとは思わない。ただ違いがあるだけだ。それでも人は人を憎む。私だって嫌いな人はいるし、憎ったらしいと思うこともある。でもそれは私だけの感情である。腹がたったら喧嘩をすればいい。喧嘩別れになってもいいからとことんやり合えばいい。ほとんどの場合、憎しみは誤解から生じているので喧嘩をしている内にわかりあうことができる。喧嘩する度胸がなければ、一人でうじうじしてればいい。

やってはいけないことは、自分の憎しみを他の人に広げることだ。人の憎しみを受け継ぐことだ。憎しみとは個人の感情である。それを自分以外の人に感染させてはいけない。人はそれを「同情」と呼ぶのかもしれない。私だって同情する気持ちは持っている。しかしそれは「哀しみ」に対する同情であり、「憎しみ」ではない。その人が誰かを憎んでいるとして、その理由を理解することは悪いことではない。しかし、その憎しみはその人だけのものであり、広げてはいけない。これは人としてやってはいけないことだと思う。(そういうヤツが戦争を始めるんだよ!)

自分の心の中に憎しみがある人は安らかな気持ちになれない。私は自分勝手な人間だから、憎しみが自分の中にあるのは嫌だ。それでも、他の人が私のことを憎いを思うなら、それはそれで仕方が無いことだと思う。受け入れようと思う。憎まれているからといってその人のことを憎いとは思わない。世界中の人から愛される人なんで存在しないのだ。それでも、その憎しみを人に感染させ、他の人にも自分が憎いと思っている人を憎ませるように努力をするというのは許せない。まして、助け合わなくてはいけない親戚内でのことなのである。

たとえ兄弟が憎みあい喧嘩をすることになっても、それが子供達に飛び火しないように努める。どこの国の人であっても、どの宗教を信じていようとも、どんな文化の中で育とうと、これは最低限の良識ではないだろうか。

長々と私の愚痴を聞いてくださってありがとうございました。

あ〜、すっきりした!


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