| 3275, 哲学者は神について、どのように語ったか ー5 |
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2010年03月14日(日)
* カントは神の問題を、どう片付けたか 哲学の問題は古代以来、「世界は何で出来ているか」「神は存在するか」「真理とは何か」「自由と自然因果律の関係」等、 大きく4つに分けて考えてきた。人間の「理性」に絶対的な信仰を置き、これらのテーマについて壮大な哲学を構築してきた。 それについて、カントは、その問題自体が無意味と切って捨てたのである。 カントは、「世界」「真理」「神」は、 元もと、理性の外にあるとした。 神も含めて、理性では認識しようがないとした。 カントは、もし神がいるとしたら、 客観(本質)は神のみが認識できる。人間の理性には限界があるから、人間が相手に出来るのは、もっぱら世界の現象でしかない。 カントは、世界を神のみで知る「本質」の世界と、人間が「理性」によって認識できる「現象」の世界に分断してしまった。 本質の世界は、理性では捉えることができないと、一蹴してしまった。 多くの哲学者が悶々として苦しんできた問題を、 そこで切り捨ててしまった。 そうこう考えると、神の存在そのものを問うこと自体が無意味ということになる。 神は、この宇宙の外の存在者と仮説をたてて、その内なる人間の理性で、その存在を問うことと自体が初めから無理。 ウィトゲンシュタインの「語りえるものは明晰に語り、語りえないものは沈黙を」と同じことになる。 「哲学は真偽の分からないことばかり語っている、判断の出来ないことを語ることなかれ!」と。 だから、誰かに「神は存在するのか」と問われたら、上記のような説明がベストになる。 とはいえ、神について、 のっけから考えることを遮断するのも問題である。 理性で現象だけを追い本質を分断することになる。 人間は言葉を持ってしまい、イメージとしての死の恐怖を植えつけられてしまった。 その恐怖から逃れるために 客観としての宗教が必要である。人生そのものは振り返ると夢・幻でしかない、と感じる。それなら、その人生の光を 包む暗黒のイメージに光の根源を入れておくこと、それも人生をかけて、つくりあげることも大事なことだ。 アッラーの神、ヤホバ、何でも良い。 イスラム教徒の祈りなど、非常に理にかなっている。あれは光の根源の祈りである。 偶然、気づいたが、去年の同日、書いた以下の内容に続く。 ・・・・・・・・・ 2900, 脳と仮想 2009年03月14日(土) 「脳と仮想」茂木健一郎著 −読書日記 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」で、以前、読書日記で取り上げたことがある。 ーウィキペディアによると 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、 有名になった言葉である。吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、 ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。 ▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。 ▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。 ▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。 ー以上だが、 これを読んで、いささかショックであった。日本社会を構成している「世間」=地域社会をみていると、地域の共同幻想を 抱いている集団社会が露出して見える。また宗教団体も教祖様の教えの刷り込みをした共同幻想集団のことも明白である。 自己幻想も、対幻想も、多くの幻滅を経験した結果として、所詮は自分も、自分を取り巻く社会も幻想で成り立ち、 そのバブルと破裂の繰り返しているだけということが分かった。 死に直面したり、リタイヤをする時に初めて、 勤めた会社を含めた全てが共同幻想の中で、自己幻想と、対幻想を持って生きてきた自分に直面することになる。 図書館で茂木健一郎著「脳と仮想」を借りてきた。 幻想と仮想と、何処が違うのか? 似たものなら、 脳との関係はどうなっているのか?と、考えながら読んでみた。この本のテーマの「仮想」は、飛行場で5歳の姉が妹に問いかける 「ねえ、サンタさんていると思う?」という何気ない一言から始まる。サンタクロースという仮想の現われ方、その我われの 現実の生活への作用の仕方の中にこそ、人間が限りある人生を生きる中で忘れてはならない何ものかがある。 それを徹底的に追求した本である。ヒントは吉本隆明の「共同幻想」から得たのだろうが、それは書いてない。 しかし、切り口は鋭く説得力がある。次回には、印象に残った部分を書き出してみるが、「共同幻想論」に劣らない。 般若心教の「色即是空 空即是色」にも通じる道理でもある。 ・・・・・・・・・ 2536, 意志するということ! 2008年03月14日(金) ーある作家の大病経験からー っ´Ι`)っ { おはよう 作家の石川好の大病経験の手記が、「生老病死」の「 老病死」を迎えるに当たって、 示唆を与えられた内容であった。彼は以下の文章を書く4年前にリュウマチに罹り、 インドの病院に入院した経験から、病気経験だけでなく、人生の在り方まで学んだようだ。 ーまずは、その部分を書き出してみた。 とくとご覧あれ! −− 病床に伏して思い知ったのであるが(今更気がついたとて遅きに失するのであるが)、体力のある人間はおのれの体力を過信する ものである。もし仮にわたしの体の一部にでも弱い部分があったのなら、日常生活においても仕事においても、病気いうことを わきまえ、自重していたはずなのだが、体力に自信のあるわたしはそれまでひたすら走り続けたのであった。 無病息災という言葉があるが、重い病気を患い、むしろ一病息災が望ましいのだと思ったのである。 入院中インドの医者の、その技術的なレベルが優れていることに驚くとともに、医者と患者との関係が いかにあるべきかを巡回してくる毎に話しかける、その見識に、わたしは深く心を打たれたのであった。 例えば、わたしが入院した日、医者達は次のように述ぺた「私たちはあなたの病気を治し、元の体に戻す自信がある。 しかし何より重要なのは、あなた自身が我々と同じ医者のメンバーになる自覚を持つことです。 それは、具体的な治療は我々がするのですが、あなたには病人であるあなたを、精神的に励ます医者の役割をやってほしいのです。 あなたに自分の病気を直す意志や気持ち、あるいは闘争心がなければ我々がどんなに努力をしてもあなたを完治させることは難しい」 病人になってみれば、頼るのは医者だけだと思っていたが(勿論それは間違いのない事実であるが)、その先生は、病人になったが故、 なおさら人間は自ら生きる意欲を持たなければならない、と暗に言っていたのである。 自分達医者は病人の自己回復力を 手伝う人間にすぎないからだ。そういう考え方をその医者は説明しようとしていたのだ。こういう医者達との会話の中で、 わたしは思い知ったのであるが、人の生き死にとどう立ち会うかを職業とする医者が、結局人間はすべてその人の意志の強さ (あるいは弱い意志の持ち主であるのならばその弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ、 ということを、これまた暗に伝えているように聞こえるのであった。前に述べたようにそれまでの人生で入院したこともなく、 また十人家族の中で育っても、母親が長いこと腰を痛め入院した.ことを除けば全員がすこぶる元気だったので、 病気とか、それが進行しての死というものを深く考えることはなかったのだが、 −− 以上だが、「宇宙の意志が、地球を奇跡の星として創り出した。そしてそこに自然と、生命をつくり出し、人間を創り、 この宇宙の意志が(己の目で)自分自身を見るようにした。」(幕末の僧)のである。意志こそ、大自然の力である。 かつ知識を積むことのできるようになったのは、目に見えない意志があればこそである。 インドの医者の言いたかった、「結局人間はすべてその人の意志の強さ(あるいは弱い意志の持ち主であるのならば その弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ」、 その意志こそ、我々人間の一番大事な何かが隠されているのである。「死ぬまでは生きている」のである。 そして生きている間は、意志を大事にすべき。」ということだ。 ・・・・・・ 2007年03月14日(水) 2171, 考える日々 −読書日記 池田晶子著 毎日新聞社出版 この本は、9年前の『サンデー毎日』の連載コラムをまとめたものである。一昔前のためか、少し感覚がずれてはいるが、 それでも彼女独特の現世、そして現象への白けた眼が面白い。私も、知人にはアウトサイダーとか、大変な人と、 思われている?が、それをむしろ目指しているのだから始末が悪い?。しかし、彼女の視線は私のような中途半端ではない。 そういえば、哲学者の中嶋義道も「哲学者というならず者がいる 」という単行本を出しているほど、奇人を自称している。 彼女の本を読んでいると、何か親しい友人と語らっているような気持にならから不思議である。 世間の現象を醒めた眼で見据えているところが同調できる。この本の中の面白いところを書き出して、考えてみよう。 −酔うほどに冴える、はずだったがーより ー P164ー ーかっては、すごかった。普通の成人男子は、ほぼ間違いなく、先に潰れた。それも私の場合、相手が潰れるまで見極めて、 しかし、それをしっかり覚えているから、相手はたまったものではない。言ったこと、口走ったこと、その状況の仔細まで、 全部覚えているのである。それだけ圧倒されて、彼らは早々酔っ払ったのではないか。仕方ない。私は、酔うほどに 冴えわたる体質なのである。酔うほどに、理性と知性が燦然と冴えわたり,全宇宙の全現象が見える。わかる、わかった、 という感じになる。妄想ではない。事実そうやって手に入れた認識はたくさんある。飲みながら考えるのが面白くて、かっては、 そうしながら、認識メモをつけていた。またの名を『酔っ払いの覚書』というそれは、さながらウィゲンシュタインばりの、 とまでは言わないが、その一瞬に閃く洞察を?まえてとじこめた断片群、これが、けっこう今の仕事の核の部分になっている。 酒のことを「スピリット]]と名づけた感性は人類に共通しているようだ。 あの液体は、私にとって、明らかに「精神」であり、思考の円滑油もしくは起爆剤として作用する。 いや、作用したのだった、かっては。ところが最近は、飲むと考えるのが面倒になってくる。 ー P−166ー 政治家や偉いさんなど、高級料亭で高級な酒を飲みながら、仕事の話をするという、その感覚が信じられない。 酒がもったいない、酒に申し訳ない、私ならそう信じる。貧乏性ではない、仁義に欠くと感じるのである。・・・ 男性が、女性のいる店にのみに行く、そのことだけで私はその人を信じなくなる。 ああ、この人は、酒を飲みたいんじゃないんだ。・・・・この仕事を始めた頃は、編集者に連れられて、いわゆる『文壇バー』 なるところにも何度か行ったが正直なところ、ああいうところは好きではない。そうは言っても狭い業界らしく、 互いにどこの誰かと言うのは知っているのだろう。見てみぬふりをしながら強烈に牽制しあっているのが、よくわかる。 有名作家が太鼓持ちの編集者を引き連れて入ってくると、店の雰囲気ががらりと変わる。 あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ、なかで如才ないヤツはオベンチャラを言いに出向くし、作家は作家で、俺のことを 知らぬかという顔で見回しているから、アンタなんか知らないよという顔で、意地でも続けたりする。 うまいわけが無い。やっぱり酒は、大事に飲みたい。少なくとも私にとっては、人生における大事な時間。 意に染まぬ人と飲むよりも、断然ひとりの方がいい。まだ覚めやらぬまま、日も暮れてきた。 今日の仕事は、これでお終い、これ一本。さて、酒ビンを抱えて、今宵も私はスピリットの旅に出る。 ーー 解)この本のあるページに、この時期に小さなガン細胞が発見された、とあった。 死因は腎臓ガンというから、やはり酒の飲みすぎ?ということか。 酒は般若湯というとおり、頭を中を活性化させる。凡人はそれを活用できないが、哲学者にとって思考活性水として 思考の飛躍にはモッテコイであるが、それが命取りになってしまった。 それにしても生半可な酒飲みでない。 酔ったときの一瞬の知恵を掬い取ってしまうというのも、彼女ならではである。また、文壇バーの文士様の姿を面白おかしく 描写しているが、だいたい酔っ払いなど、こんなものだ。何処かの街の御名士様溜まり場バーなど、ほぼ同じである。 私自身、そういう御名士様溜まり場バーには一切行かない。スナックでも4千円までの店しか行かないからニアミスはない。 寂れた、うら悲しそうな小料理屋かスナックでオダをあげるのが好きである。酒に沈没したオナゴ哲学者・池田晶子に献杯! o(▽^*)ノ~~=バイ ・・・・・・・・ 2006年03月14日(火) 1806, 秋葉原再開発 |。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。) 先日、東京・秋葉原にたち寄って、その変容に驚いてしまった三十年以上前から秋葉原のワシントンホテルが定宿で、 年数回は電気街を歩いていた。しかし5年ほど前から日暮里のホテルに変えてしまった。 久しぶりに秋葉原の電気街など駅周辺を散策
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