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2009年11月03日(火)
「 脳と日本人 松岡正剛 茂木健一郎 」 −読書日記
この本の初頭から、「エッ!」と思わせる内容である。「主題は20世紀に出揃っている、21世紀は方法の世紀」と。 最近、パソコン、インターネットを初めとするIT機器などの飛躍的進歩で、世界は大きく変わろうとしている。 それより良いにつけ、悪いにつけ、私自身が劇的に変わってきた。 方法のキーワードが「編集」と看破しているところが、 松岡正剛の言わんとするところ。 実際の、このテーマ日記を8年半ほぼ毎日書き続けていて、大きな内面の変化を実感する。 起承転結の編集作業を通して、外的世界の把握の仕方と、内面の編集作業がアップスケール?した。 それを実感しているからこそ、冒頭からの二人の対話に引きこまれてしまった。 正座をして隣で聞き耳を立てて読んでいる感じである。 編集とは創造作業の方法というとわかりやすい。 〜まずは冒頭の、その部分から〜 松岡: 20世紀は主題の時代で、21世紀は方法の時代。方法というのは、ものの見方、考え方の支点。 そのキーが「編集」ということ。 平和とか環境とか、民主主義とか多様性とか共生とか、主題はだいたい 20世紀に出揃ったでしょう。でも、何も解決していない。 だったらこれからは、方法が問われた方がいい。 それには編集的方法にもっと注目した方が良い。 編集という言葉は、新聞や雑誌、テレビ、映画などのマスメディアで よく使われる技法用語です。 けれども僕は、その意味と用法を拡張して、何らかの出来事や対象から情報を得たときに、 その情報を受けとめる方法のすべてを編集と呼んでいます。たとえば、パソコンで文章を打ったり、日記や手紙を書いたり、 というのは全て編集です。企業の経営やプラニングを考えたり、会社でスピーチをしたり、家で料理をつくったりすることも 編集です。アタマの中に浮かんでいることと、体で起こることを、目や手や道具をつかってつなげているわけだからね。 だからサッカーや野球は編集ゲームですし、小説を書くことは編集構成です。何かを思い出すことも情報編集です。 茂木:「編集」という方法が考えたり、書いたりという人間の知覚や思考、表現のすべてにかかわっているわけですね。 松岡: 人間にかぎらず、生命体の活動はもともとが情報編集でしょう。 生命体の本質はそもそも情報高分子だし、生きていると いうのは、負のエントロピーを食べて非線形的なふるまいをすることですからね。二十一世紀は、そういう方法に着目するべきです。 茂木: その意味では遺伝子情報をめぐる多くのプロセスも編集的といえるでしょうね。 松岡:「編集というのは、新しい関係性を発見していくということなんです。スピーチだって料理だって、商品開発だって、 「印象に残る」とか「おいしい」とか「便利なものを提供する」というふうに新しい関係を発見することですからね。 茂木: 世の中には、科学、経済や文学、哲学、歴史、そして、インターネットからスポーツ、ファッション、料理、 さらに、歌舞伎や能楽から音楽、お笑いまで、ぱらぱらに事象が散らばっていますね。情報の豊穣があっても、 それを私たちの生の充実につなげられないでいる。 松岡: もったいないよね。それらの「あいだ」をつなげて、そこに新しい関係を発見しなくちゃね。 たとえば茂木さんがクオリア(感覚の質感)を研究しているのも、心脳問題に新しい関係を発見したいからでしょう。 茂木: そうですね。人間の脳の中には約一千億個のニューロン(神経細胞)があります。そして、それぞれのニューロンが、 シナプスと呼ばれる数千から一万の結合を通して他のニューロンと関係を結んでいる。 松岡: その一つ一つのニューロンを取り出しても、「心」はどこにもない。 茂木:「心」を生み出すのは、脳全体にまたがって、一千億個のニュー・ロンがつくり上げる、複雑で豊かな関係性ですからね。 〜〜 主題と方法というと、「主題さえ決まれば何とかなる」と思いがちだが、方法が問題である。 卑近な例として、電話である。 各家庭の普及、そして携帯電話、それが情報端末に変ってきた。 その変化が社会のあり方を変えている。パソコンも、TVも、車も、方法。これが先行してテーマを再編成する時代である。
・・・・・・・・・・ 2769, 閑話小題 2008年11月03日(月)
*時代が激変している! この数ヶ月、休日に車で一人、フラッと目的なしに色いろな店に入るようになった。女性なら当たり前のことだろうが、 男はフラリというのは少ないのだろう。昨日は、地元のスーパーセンターの<ムサシ>のペットショップ。 犬の半額セールデ、お客で溢れかえっていた。普段の3倍?の子犬で、それぞれが飼いたい衝動にかれれる目をしていた。 家内が動物が大嫌いとは知らなかったが、そういう人間が存在するとは衝撃であった。 まあ、愚痴か! 最近、面白いのが中古品ショップである。ハードオフに冷やかしで行っていたが、似たような店が出来てきた。 新品同様で、三分の一が相場なら買いたい衝動も沸く。 少し恥ずかしいが、今更である。 合理的という意味で、中古ショップは理にかなっている。アマゾンの中古本もしかり。 −−− *りんごダイエット 《字数の関係でカット08年11月03日》 −−− *昨日は、親戚の法事 昨日は、父方の親戚の法事。 兄が実家の商売を倒産させてしまったので、数年は謹慎の身。 当分は私が法事を出ることになる。 これまでは「家」を殆ど無視、意識しなかったが、今後は違う。 10時半に法要があり、12時半からオトキ、二時過ぎに終了。家に帰ってTVで天皇賞をみる。 ところでニューオータニの和食料理、なかなか美味しい。 驚いた。 −−− *アメリカ大統領選 《字数の関係でカット08年11月03日》 ・・・・・・・・・・ 2007年11月03日(土) 2405, 耳栓とアイマスク
(@⌒ー⌒@)ノおはよ〜♪ 三ヶ月ほど前に、「100円ショップ」で耳栓を見つけ購入した。そして使い出したところ耳栓なしには寝れなくなってしまった。 あくまで主観だが、80?の音が遮断される。寝室でアイマスクと耳栓をすると、隣で家内がTVを見ていても平気で眠れる。 寝ついた後の四時間は熟睡状態になる。そのためにか、その後は逆に眠れない。私の住まいは住宅が密集していないため、 殆ど雑音は聞こえてこないが、耳栓をして初めて、それでも雑音に囲まれていたことに気づいた次第である。 翌日は忘れているが、消防車や救急車、そして猫の鳴き声、家内の部屋の出入りだったり、周囲の騒音が実は多かったのである。 耳栓は飛行機内で一〜二回つけただけで、家でつけて寝る発想自体がなかった。 夜半に猫の鳴き声に悩まされた時など、 枕元において付ければよかったのである。見た目は圧縮されたスポンジのようである。 先日借りてきた月刊誌「新潮45」の表紙の裏に広告が一面に載っていた。「新素材で、音をシャットダウン」という謳い文句で、 二個組みで280円であった。売れるから載せているのだろう。 売れるということは良いということである。 以前にも書いたことがあるが、ラジウム石付きアイマスクがよい。夏の間は、眼の周囲に汗をかくので付けないが、 それ以外のシーズンはつけている。耳栓に、アイマスク、これをしたと同時に違う世界に入った気分になる。 おそらく、その布も、そういう系統の素材で出来ているのだろう。調べてみたら、炭が縫いこまれたものもあった。 でどうした? チョッとした工夫で睡眠の世界が一変するということ! バイヾ(・ω・`)ノバイ ・・・・・・・・ 2006年11月03日(金) 2040, 「あたりまえなことばかり」 −1 (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ 読書日記 著者の池田晶子は、専門知識や用語に頼ることなく、 日常の言葉によって「哲学」を語ることで多くの読者から支持を受けている。 自分の考え、自分の言葉で、存在と宇宙について思考をしている。 彼女は、日本で気をつけなければならない話題が三つあるという。 1、死、 2、宗教、3、国家とは何か、である。 《字数の関係でカット09年11月03日》 ・・・・・・・・ 2005年11月03日(木) 1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−1 −読書日記
「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。 読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に 入ってから大きな手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。
心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という意識を明確に持ったまま、 心の奥深い世界を描写している。 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。 ー「書くことの秘儀」ー ”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、リアリティを生み出すことだ、” ”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる 条件ではなかっただろうか。死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 《字数の関係でカット08年11月03日》 ・・・・・・・ 2004年11月03日(水) 1310, 23歳の日記−3 ー卒業式の思い出ー
大学の卒業式の写真が数枚残っているが、その前後の事や詳細の記憶は殆ど無かった。 ところが、この日記で当日の記憶が鮮明に蘇ってきた。最終の学校の卒業は、人生の大きな境い目である その記念日の記憶は、大事なことと読んでいて実感する、それも年齢を重ねれば重ねるほど。 幼稚園、小学校、中学校、高校とその日のことは憶えている。その日の父親の気持ちが、今あらためて 振り返ってみると少しは解かってくる。写真も大事だが、気持ちの記録はもっと大事である。 それにもっと早く気がついていれば、日記を書き続けておくべきだった。読み返していて感じることは、 「若いということは、若いというだけで光り輝いている」ことだ。不安定で歪がまだあっても、あらゆる可能性があるのが 若い時の特徴である。それが悩みになるが、その悩むということがよいのだ。それも振り返ってみて初めて気がつく。 ー1969年 3月24日ー 卒業式に出席する為に、8時半に起床、10時半に四日市から東京に向け出発する。 15時前に東京駅に到着する。大学時代の友人の川崎のところに電話を入れる。 一科目、追試が残っていて、それが及第しないと卒業できないのだが、大丈夫だった。 絶対に大丈夫と思っていたが、本当に良かった。万一の時は、就職もオジャンになってしまうのだから。 その足で、寮に行く。佐藤君は居なかったが、残してあった荷物は娯楽室にあった。 その荷物を持って、千葉の検見川にある(三番目の姉)優子さんの家に泊めてもらう ために向かう。父が私の卒業式の為、来ている。何か父も嬉しそうだ。 恐らく、最後の子供を無事卒業させたという安堵感だろう。父に言ってはならないことをズケズケといってしまった。 「このままの仕事では、必ず淘汰されるのでは!」とか。父は何か悲しそうな顔をした。本当に何をやっているのか、 自分を怒鳴りつけたい。それも自分の卒業式にわざわざ出てきてくれたのに。 「親父よ、私はまだまだ未熟なのだ。ご免なさい!」 本当に恥ずかしい。 ー3月25日ー 7時半に起床。今日は卒業式だ。8時過ぎに近くに住んでいる(4女)姉の礼子さんがくる。 父と私に会う為だ。 私は寮に行かなくてはならないので、父より一歩先に家を出る。寮で大家の奥さんに挨拶をする。 丁度その時、佐藤君とバッタリ会う。最後の握手をする。初めは親しかったが、途中から行き違いが出た。 しかし、気持を何時も通じていた。良い寮での同僚であった。 佐藤よ、ありがとう。 これで壊れた関係を元に戻せたようだ。 これで恐らく会うこともないと思うが、良い友人に恵まれた。 さて、その後父と待ち合わせて、大学に行く。これが本当に、本当に最後の最後の行事になってしまった。 まずは深井に会う。新橋しのだ寿司の御曹司で、無神経だったが何ともいえない暖かさがあった。 彼も興奮気味であった。その後、武澤先生に会う。父を紹介した後、父ともども記念写真を撮る。 武澤先生には、言いたいだけいい、その結論を出さずしまいであった。その後、河村、外山、石川、奥野、 兼古、広瀬、皆が居た。 本当に最後ということで涙を浮かべて最後の握手をする。彼らとも、もう二度と会えないのだろう。 思い出の深い校庭である。ここが日本かと思われるような何ともいえないアメリカ的な雰囲気があった。 父が、あまりに私のところに多くの友人が次々挨拶に来るので唖然としてみている。 父は何か取り残されているようだった。しかし、それより全ての友人に挨拶をする方が先である。 卒業式は、一人一人が壇上に上がって,総長から直接卒業証書を手渡された。その後、全員で校歌を歌い無事終了した。 そして、学食に集まり、ビールで乾杯をして、コップを床に叩きつける。これで学生時代とお別れという儀式である。 そして学校を後にする。ところが面白い現象がおきた。ふと見ると、歩いているのが、入学当時のグループの兼古と奥野と 広瀬の4人なのだ。最後はそこに収まったということだ。兼古は千葉の方向ということで、駅前の喫茶サルビアで思い出話と、 今後の人生について話し合う。そして電車で千葉の検見川まで一緒に帰ってくる。これで、完全に学生時代は終わってしまった。 良い学生時代であった。そして、良い卒業式であった。これだけ、素晴らしい!と思えるというのは一生の宝になるだろう。 明日から再び現実が待っている。
・・・・・・・・・ 2003年11月03日(月) 943, トンネル怖い
先週TVを見ていたら、磐梯山から紅葉の景色の生中継をしていた。 「今年は紅葉の時期が例年に比べてかなり早い」と現地の人がいっていた。 その言葉の中に「11月初旬の連休には終わってしまって残念である」という気持ちが読み取れた。 ところが会社の大矢さんが、その時行っていたという。 それが「素晴らしい紅葉」であったと教えてくれた。 昨日、思い立って磐梯山に行ってきた。 しかし最後の盛りは、やはり先週であったようだ。 ゴールデンラインのコースの木々の大部分の葉っぱが落ちていた。それでも低い山には紅葉が十分残っていて、 快晴に恵まれたこともあって素晴らしい磐梯の秋の景色を楽しむことが出来た。 ところで10年位前から、高速道路の一車線のトンネルが恐ろしくなった。 誰もがそうだろうが、特に緊張をしてしてしまうのだ。 不安になり他の車はみるところ80キロは 出しているのに65キロが精一杯。 手には汗ビッショリ、気持ちが悪くなるのだ。 高速道路にほとんど乗ることないのが理由なのだろうが。神経症の可能性もある。トンネル内の事故は死亡のケースが多い こともあり、なおのこと焦るのだ。 一般道に下りればよいのだろうが、時間を節約しなくてはという気持ちがそれをさせない。 帰りは高速の入る直前にある事故用?の空間に車を止めて、後続車を追いやった後にユックリ走るようにしたが。 歳をとったということか。若いうちに家族と日本中を車でいっていて本当によかったとつくづく思った。 今度からはバスツアーにきりかえなくては。 いや日本はもう京都を除けば行くことはないか? それとも、泊り込みで一般道をのんびりいくかだ!
・・・・・・・・ 569、ケーススタデー ー2 - 2002年 11月03日(日)
1968年 毎週金曜日の15時か16時より2時間開かれる。ゼミが終わると太陽が黄色に見える位疲れていた。 知的訓練など全くしたことがなかったためか?二年間コースで初めの一年は課題の本を読んで、それの感想と議論。 二年目の前半は事例研究で、後半は各自が自分で事例を創り、当事者として2時間ゼミの全員に質問と追及を受け、 その結果を討論する内容だった。私は途中二年目からの編入であったが。 他の人を聞き取る場合は刑事のような内容追及が リアルで面白いが、自分の場合は追求されて、瞬時に物語を創っていかなければならない。 今でもその全て憶えている。 このケーススタデーは「見聞皆師」にあてはめて考える事が出来る。現象ー事象の中から真理を探し学ぶ方法にもなった 。 また人間関係だけでなく、営業や経営のベストプラクテス−ベンチマーキングにも酷似している。 ゼネコンの営業の社内研修でも、これに似たケースでOFF−JTが行われていると大手の ゼネコンの営業の人から聞いたことがある。 流通やサービス業の他店見学も似ている。 サラリーマンの足の引っ張り合いは善意を装ってくる陰険版か?現象とあるべき姿の格差を埋める作業だ。 少し違うが、帰納法に似ている。現象の中の真理の内容を検討して結論に導くという点で?? 新しい車が発売されると工場ですべて解体して、それぞれのパーツで業者やその部門の人達が集まってチェックする のはどこのメーカーでもやっていたという。今はコンピューター処理でインターネットをフルに利用しているのだろう。 これの人事管理版が武澤ゼミのケーススタデー?! 管理されるという事はあまり気持ちのいいものではない。 でも組織体としては、それは必要欠くべからざるものである。ここでいま一つ学んだ事は、当たり前のこと ー自分の能力は自分で創りあげるものという事だ。最後は独りの自覚で自分造りをしなくてはならない。習慣づくりといってよい。 問題が逸れたが?私の辛辣さは、露悪ー露善(偽悪ー偽善)を自分や他人の中ですぐ直感してその原因を構造化するためだろ ー父もそうだったから、その理論的訓練を受けた事になる。それよりその結果として自分の無知蒙昧をいやというほど知らされた。
・・・・・・・・・ [214] オカマバー - 2001年11月03日(土)
14〜5年ぶりに新潟駅前にある、オカマバーにいってきた。オカマバーの面白いのはその話術である。 変わった飲み屋がないかと言われて、当時よく知人を連れて行ったものだ。始めは近くの大原簿記の理事長が近くに ビルを創りたいが、この辺の情報を知りたいとので一献と、どう云うわけか奥さんと娘と行ったのがきっかけであった。 やはり初回は異様な感じで、カウンターに男同士の絡みの置物の像には驚いた。しかし知人に話をすると殆どの人が 連れていげという。喜ぶが二度と行こうとは誰も言わない。奥にやはりもう一軒あるそうで、そこはその気のある ホモのタマリ場という。男同士はあまり猥談は言わないが、かなり際どい下ネタをあっさり言う。 以前姉達が新潟に来た時つれていったが、その時私の手をとって人先指をふき始めた。 そして目をツブレと言うつぶった瞬間その指をシャブラレタ!ぞっとした。 もしホモの味を知ってしまったら、抜けられないとその時思ったが、それより気持ちが悪いほうが先であった。 悲鳴をあげたが、1人の姉が私にもやってみてという。真面目を絵に書いたような人 で、皆凝視の中シャブラレタが「何ともないわ、それより真面目な顔でやってるほうが面白いは!」と言ったのに驚いた。 私の知り合いが、子供を連れてサウナに行ったららそのママがいたと言う。 子供を盾に下半身を隠しホウホウのていで出てきた時のシグサガの話が面白かった事を思い出した
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