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2009年10月10日(土)
「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著) ー読書日記 唯幻論者の岸田と、宗教評論家の小滝透の対談は分かりやすく宗教とイデオロギーの関係を 世界的視点から踏み込んでいる。一神教の「正義」そのものが戦争と虐殺の火種になり現在に至っているが、 といって「価値」なしに生きることが可能か問題提起をする。イデオロギー(=一神教の亜種)は果たして終焉したのか。 「大きな物語」がなくなった現実の世界は泥沼化しているが、その病巣をえぐりだす二人の異種の対談である。 現在のアラブ対キリスト・ユダヤ世界の対立の根本構造を対話の中からあぶり出している。 ー「おわりに」で、岸田秀が以下のように、この本で取上げた問題を分かりやすく要約しているー 毎度いつものわたしの書き出しは、人間は本能が壊れた動物であるということである。 本能とは環境を知覚する枠組みであり、かつ行動の基準である。本能が壊れた人間は周りの世界がどうなっているか、 そこでどう行動すればよいか、さっぱりわからなくなり、耐え難く不安になった。そして滅びてもおかしくなかったが、 人間は、本能の代替え品として自我を発明し、自我を心の支えとして宗教を発明し、辛うして生き延びた。 自我とはここにいる自分という存在はどういう存在であるかの規定であり、宗教とは、自我の周りの世界はどういう 世界であるかを説明し、世界において自分はどうすればいいかを指示する規範である。 神も宗教も幻想であって、 現実的根拠はないのであるが、しかし、それなくしては人間が生きてゆけない必要不可欠の幻想である人間は他者たちと集団を 形成して生きるしかないが、人間が最初に形成した集団は、地縁共同体それをいくらか拡大した規模の共同体であったと思われる。 この共同体が共同体として成立するためには、その起源、由緒、来歴などについての物語が必要である。旧約聖書はそれ・・(略) ・・・そのような宗教の形態がどういうものであったかはよくわからないが、とにかく、神々はたくさんいたであろうから、 多神教と言っていいであろう。何らかの形の宗教をもっていない部族あるいは民族はなく、世界の各地の諸民族はそれぞれ独自に それぞれの宗教を創ったであろうが、そのすべては多神教だったろう。 したがって、多神教が宗教の本来の自然な形であると 言える。 多神教の神々は、一般に、部族あるいは民族と血が繋がっている先祖、あるいはいろいろな経緯でさまざまな 形をとることになった先祖である。そうでなければ、神々が住む周りの世界は親しい、なじみのあるものとならないからである。 ところが、昔々のその昔、地球上のある地方、中東地方に例外的に唯一絶対神を設定する奇妙な宗教、一神教が出現した。 一神教は、古代エジプト帝国において戦争捕虜としてか何かで、それぞれ出自の部族あるいは民族から切り離されて連れてこられ、 差別され、虐待されていた奴隷たちが逃亡して創った宗教であると考えられるが、そのような成立の事情から、この唯一絶対神は、 信者たちと血が繋がっていない赤の他入で、狭量で厳格で嫉妬深く恨みがましい復讐と戦争の全知全能紳であった。 全知全能の神に頼らなければならないほど彼らは追い詰められていたのである。 数千年を経て現代では世界はキリスト教が、 なかでも特にアメリカが優勢をしめており、そして、もう一つの一神教、イスラムが劣勢ながら、アメリカに挑戦している といったところである。そして、多神款は一神教に押され気味であるが、一般に多神教徒は多神教徒であり続けたがっている。 多神教と一神数とが共存できる道はないものであろうかと。共存できると考えるのは多神教徒、一神教は、そうは思っていない。 ―― こんなところだが、人間は他愛のないもの。この程度の神に数千年も世界中が縛られているのだから!
・・・・・・・・・ 2745.サブプライム問題と「ファウスト」 −2 2008年10月10日(金) *メフィストフェレスのモデルはジョン・ロウ ゲーテが第二幕のこの場面で、「紙幣」の創造を語ったのは、単なる思い付きではなかった。 それは、「ファウスト」という作品そのものの制作動機と深くかかわっている。 つまり、「紙幣」の創造に象徴される「錬金術」こそが、この不滅の名作のテーマなのである。 南ドイツのフライブルクに近いシユタウフェンという町に、こんにちでも獅子亭という宿屋が残っている。 その外壁には「一五三九年、黒魔術師ファウスト博士、獅子亭に死す」という碑文が刻まれており、ゲーテの戯曲の主人公、 「ファウスト」は、この実在の黒魔術師がモデルだといわれている。「黒魔術」とはほかでもない、「錬金術」の別名である。 「火」、「土」、「水」、「空気」の四つの要素に、「哲学者の石」という「フィフス・エレメント(第五の要素が加われば、 「鉛」のような価値の低い金属を、「金」に変える魔法のカが生み出されるという「錬金術」の思想が誕生した古代エジプトでは、 「ケム」と呼ばれる黒い土が簸金術に用いられていた。 ゲーテは、ジョン・ロウをモデルにしていたのである。 ーまずは、ジョン・ロウたる人物を分かりやすく欠いてあるブログから抜粋してみるー 1715年に太陽王という異名をとったフランスのルイ14世が亡くなっています。この当時のフランスは、度重なる 戦争の影響で深刻な財政破綻に瀕していたのです。新しい王となったのはルイ15世ですが、わずか5歳の幼少であったため、 オルレアン公フィリップが摂政を行うことになったのです。 フィリップは遊び人で、たびたびパリのカジノに出没していたが、 そこでジョン・ローなるスコットランド人と知り合い意気投合。 このジョン・ローなる人物は大変の頭の良い男であり、とくに経済理論に通じていたのです。後に英国の新古典派の 経済学を代表するアルフレッド・マーシャルやあのカール・マルクスは、彼のことを次のように批評しています。 (以下、字数の関係でカット2008年10月11日) ・・・・・・・・ 2007年10月10日(水) 2381, 下流社会 第二章
産経新聞・土曜版の産経書房というコーナーの 「下流社会 第二章」 ーなぜ男は女に負けたのかーの書評が、面白い! 買って読むほどではないが? 前書の「下流社会」を読んでいたので、尚のこと面白い内容だった。 まずは、そこの部分をコピーしてみる。 ー「女性と国家にすがりたい!」が、下流社会の男の本音ー 「品格」の名のつくミリオンセラー2冊を当てこすったわけではありませんが、これが今の下流男性たちのホンネです。 その「心」を問う前に、そもそも下流とは何かについて、簡単におさらいしておきましょう。 格差論争に「火に油を注いだ」と著者自ら振り返る前著『下流社会』は80万部を記録し、ネットを中心に物議も醸しました。 一躍時代のキーワードとなった「下流」とは、単に所得が低いだけでなく、総じて人生への意欲が低く、 だらだら生へきている人たちを意味します。2年ぶりの続編となる本書は、前著で提案されたいくつかの仮説を検証すべく、 全国男性一万人対象の大規模アンケート調査を新たに実施、分析したものです。その結果、数々の意外な発見がありました。 ここで冒頭の一文に戻ると、彼らは今や「正社員には夢がない」と嘆息し、「妻にも年収3OO万円以上稼いでほしい」 と切望する一方で、強い政治家、強い日本を志向しているからなのか石原慎太郎都知事を支持し、「オリンピックや サッカー、ワールドカップで日本を心かすら応援する」というのです。すがられる側の女性はどうでしょうか? 著者の分析は既婚性/未婚、子あり/なし、正社員/非正社員など、さまざまな軸を用意して「女30歳の勝ちパターンはどれか?」 と虫の目で迫ります。すると.「未婚で非正社員で一人暮らし」が希望にあふれている。 つまり、会社と男性と親に束縛されない女性が幸せ」なのです。男女の意識は、かくまですれ違っているのです。 本書は、人生選択に、ビジネスに、政治改革に、多くのヒントが含まれています。 ーー 書評は以上だが、「女30歳の勝ちパターンはどれか?」と虫の目で迫った結果、「未婚で非正社員で一人暮らし」 が希望にあふれている。 つまり、会社と男性と親に束縛されない女性が幸せ」というから驚きである。 考えてみたら、それが当然なのかもしれない。ただし、心の中は別なのだろうが。 すぐ辞めていく若い社員を見ていると、実際のところ似たようなパターンが多い。 ただ、長い目で見たときに、それは不自然であり、何らかのカタチで自分に跳ね返ってくるのが解らないのだろう。 その基礎教養すら持ち得ない「ゆとり教育の落とし子」と見ると理解できる。競争社会では、一部の人を 除けば夫婦で働かなければ生活できない。そこで共働きというが、ゆとり教育で育った女性は、家庭、会社、 両親に束縛されたくない。それは解る、しかし、その先にあるのは、その誰にも相手にされない未来がある? その時は、やはりミスマッチの男はゴロゴロしているから、選りどりみどりか! オマチシマース.:☆。:ヾ(´Д`、) マタネ ! ・・・・・・・・・ 2006年10月10日(火) 2016, 「私」のための現代思想 −9 (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス! *まずは第四章の内容を大まかに書いてみる この章では、「私」にとって「他者」とは何かを掘り下げている。 「他人」と「他者」の違いと、「他者」は「私」にとってどういう位置づけなのか? その意味と位置づけが、この章を読んでいると少しずつ解ってくる。「私」は<他者>の「声」の存在を通して 「境界」の存在を察知する。その境界の中で、芯としての《私》に気づきます。他者との境界が、 内なる《私》をつくっていく。他者は時間とともに変わり、消滅しても「境界」と、内なる《私》は残る。 この汝らとの境界が発生することによって、それまで未分化だった「私」は、明確な「形」をもつようになります。 これが《私》の発生です。《私》は、他者の「声」に触発されて発生する「私の核」である。それがいつの間にか、 私の境界を守るようになる。それが孤独を発生させ、「固別であること」の自由を得ることになる。 その《私》は「他者」を自分の都合の良いように認識する、その姿が「他人」となる。 「他人」の姿は、《私》が自分の物語のためにつくり上げた「他者」の像でしかないのか? そう考えると、全くその通りでしかない! ー以下は、要点を抜粋した内容であるー 第四章 「私」にとって「他者」とは何か −? この章では、私たちの存在の核である、《私》の成り立ちを明らかにすることによって、<私><身体>を 所有することを考えていく。他者と他人は異なる概念であるということに注意すること。 <他者>が、<私>によって認識されたとき、その認識された像を「他人」という。 ここでは、まず「<他者>とは何か」ということから考えはじめる。ところで、<物語>と<世界>を所有した人間は、 その物語を遂行する際や、世界認識において、<他者>と対立します。<社会>とは、異なる物語を生きる者たちの 集合体なので、そこに行き違いが発生する。行き違いを調整して同じものを目指そうとする必要がありません。 <他者>の了解不可能性を認識し、闘い、共振することを目指すだけで、<社会>を所有することができます。 <他者>の存在を想定することによって、<社会>を所有することができるのです。 ーレヴィナスの <他者>− (以下、字数の関係でカット2008年10月11日) モーニングコーヒーでも!( ^-^)_且~~~ ・・・・・・・・ 2005年10月10日(月) 1651, 北イタリア旅行記−2 ードロミテ渓谷ー
オーストリアと国境を接するドロミテ渓谷。アルプスの雄大な山々と奇峰の間の道をバスで通りながらみる光景は 感動の連続であった。オーストリアからの抜け道的な道路は、第一次、第二次大戦の時の軍事道路として開発され、 その後その景観の美しさから山岳リゾート地として知られるようになった。イメージとしてスイスに酷似しているが、 210?にわたる道路からみる景観は今回の旅行のハイライトであった。その中で、やはりボルドイ峠にみる カレッツァ湖の美しさが感動的であった。石灰岩の岩肌がむき出しのノコギリ状の山々が次から次と雄姿を現していた。 山と空は、その地域特性をそのまま露出して見せてくれる。観光初日で、既に感動のピークになってしまった。 山の美しさは、何故これほどまでに人の心をうつのだろう。カナダのロッキーが広大の大地を背景にした 山の美しさなら、ドロミテは奇景の山並みの間からみる美しさである。 ーべネツアー べネツア観光当日の雨は残念であった。この日が快晴ならば、この旅行は最高級の旅行の分類に入ったのだが。 ベニスが西暦800年から1800年までの1000年間も独立国していたことを、今回はじめて知った。 ローマ帝国と、トルコの間にあって、このような小国が独立を保てたのは奇跡に近い。海に突き出た島々に位置し、 攻めるには膨大な海軍力が要するからだ。海に突き出た島も入り組んだ細い川?が道路のようにあり、水上バスや 水上タクシーが移動手段として使われている。メイン道路が川で、側道が歩道になっているところが風情がある。 ベニスは日帰りではなく数日の間滞在してじっくりするところ。天候が良いという前提だが。 結局、自分が実際に目で見たことと、経験したことが自分を構成してしまう。 だから自分の壁は、経験と見聞を広げるしか乗り越えることができない。旅行は、そのことをよーく教えてくれる。 雨のベニスもすばらしいが、この日の雨はかえすがえす残念であった。 ー つづく ・・・・・・・・ 2004年10月10日(日) 1286, 内部告発ーもう一つの情報化
UFJが刑事告発をされたが、発覚は一本の電話だったという。「UFJ東京本部の3F会議室に、 金融庁に説明をしたものとは別に資料が隠されている」という電話が去年の10月9日に入った。 これがUFJ銀行を三菱東京銀行に統合されるまでに追い詰められる契機になった瞬間であった。 そこで金融庁の検査官が入って見たものが100個のダンボールの箱だった。これが内部の隠語で「やばファイル」である。 常務以下の三人の役員などが告発を受けたが、当時の社長や副社長や専務などが知らないはずがない。 早速、副社長宅が捜査に入られたが、それにしても恐ろしい事である。誰が電話をしたのか、そのあたりの事情を調べて いくと一冊の小説になる。いまはデジタルカメラや、カメラつき携帯電話がある。脱税で上げられるのは殆ど内部告発という。 数十年も前の話だが、私の知人の会社に税務局が入った。何と社長の自宅の隠し金庫に、税務暑の担当が直行したという。 私が、「おかしいと思わないのか、内部の告発だよ!」というと、ハタと考え込んでしまった。 そこは、家族しか知らない?はずだが。何か複雑な情念の凄さを感じ取った。 厳しい時代になったものだ。4大大手銀行が、内部告発の一本の電話であえなく消えてなくなるのだ。
・・・・・・・・ 2003年10月10日(金) ある時間の断片ー40 11月15日 1968年
・8時過ぎ学校へ出発。「人事管理」の授業に出席。終了後。先生と顔を合わせるが、緊張をしてしまった。 自分に自信がないためか。全て見抜かれているようだ。授業終了後、高木の車で寮近くまで送ってもらう。 再び、ゼミに出席のため、大学にいく。15時から17時まで教授と同期の3人と「東レの派遣学生」4人と 議論をする。特に田島が教授に対して好戦的な議論を仕掛ける。大した神経の持ち主である。そして自信も凄い。 その後、田島と二人で学食で夕食後喫茶店へいく。カナダに行きたいといっていたが断念をしたと告白した。 その理由を話した。 ・カナダの叔父さんから手紙で、甘さを指摘された。 ・母から家庭に事情で行かないで欲しいと哀願された。 ・アルバイトをしていて、世間の事情がわかってきたこと ・兄夫婦を見ていて、実直に生きる必要性を感じた ・遠くを見つめすぎた、夢のようなことばかり言っていられない等々理由を挙げた。20時過ぎに帰寮。22時から机に向かう。 ー11月16日 1968年 ・朝10時半起床。大学の書籍部へ行く。どういうわけか今日は誰も会わずじまいだ。こういう日もあるのだ。 (以下、字数の関係でカット2008年10月11日) ・・・・・・ 545, 物書きの凄み - 2002年10月10日(木)
このホームページで素人レベルで毎日文章を書いているが、プロは凄いとつくづく思う。 毎日文章を書いているから、それが解るだけの話しだ。作家の椎名誠が週刊文春に、「赤マント」という連載を書いている。 5年位前に、たまたま買った内容にただただ驚いた。「新宿駅で、お腹がおかしくなり、トイレに駆けこもうとしたが、 間に合わなかった具体的な事情」を詳しく書いているのだ。誰もが「あわや!」ということがあるはずだ。 「くそったれ」「クソ!」というとおり、日本人の一番の恥でもある。「デモノ・ハレモノー出物、腫物ところ嫌わず」 というが、これは「大便、生理」の掛け合わせの言葉だということが最近解った。アメリカのクソという同意語は 「ファック」だ。海外旅行の心配は、これが最大の事だが。誰もが過去に失敗の一つや二つや危機一髪はある筈である? それをネタにして、読者をひきつける凄みはやはりプロでしか出来ない。 その後の「赤マント」に、この文章が大反響を したと書いていた。瀬戸内寂聴が「作家は大通りの真ん中で、素っ裸で大文字で寝ているようなもの」と書いていたが、 その凄みを垣間見た思いだった!露悪趣味と捉えるか、人間的側面の原点の表現と見るかだ。 私など偽悪趣味でしかない??!!偽善もあるが!
・・・・・・・・・ 179、創造について-2 2001/10/10
創造とは‘カタチ’ にすることである。言葉を‘か’と‘かた’と‘かたち’にわけて考えると ・‘カ’ は ー神のカー神示ー 発想ーアイデアーインスピレーションであり ・‘カタ’は −型,形ー 枠組みにする、 システムを作るということになる。 ( アイデアの実現の計画化ともいえる)田は字のとうり枠組みであり、‘か’と‘た’をつけて形になる。 ・‘カタチ’ −カタに血(エネルギー)をいれ、カタチにする。 創造について、システム工学の城功氏の本に書いてあった内容であった。 なるほどと唸ったものである。これはアイデアが出た後、これを実現化していく内容を簡便に分解したもので、 非常にわかりやすい内容であった。カレーライスを例に取ると、急にカレーが食べたくなったとする。 これがカである。冷蔵庫の材料を頭に浮かべ、スーパーにいって足りない食材を買い、仕込む、これが形作りである。 そして煮込むこれが血である。これが国作りでも、会社でも、ビルでもみな一緒である。 かー>かたー>かたちー>これを知らないうちに何らかの形でしている。もちろんこの文章も、そうである。 まずはテーマ次に枠組みを考え、時間をかけて修正、そして一挙に書き上げである。
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