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2009年09月21日(月)
数ヶ月前に、何気なく全身鏡の自分の猫背姿をみて愕然とした。 腰を痛めていたこともあるが、首が少し前に出た猫背の初老の男の姿が、そこにあった。 毎日、散歩をして軽いストレッチをしていたのだが。 しかしストレッチを一年ぐらい気を抜いていたのは事実。 意識して背筋を伸ばすように心がけてはいたが。 そこで、さっそく朝起きる直前に布団の中で全身を伸ばし、 背筋を伸ばすマシーンを探して取り寄せ矯正を始めた。 朝晩に使っているが、これでかなり矯正はした。 ところで先日、TVのワイドショーで「猫背」をテーマにしていた。 ・猫背には「首猫背」と「腰猫背」がある。 首猫背は首が前に出た猫背で、腰猫背は腰が少し引けて上半身が前に傾いている姿勢。 ・壁を背に密着して立って、脚から頭までピッタリとくっ付けば猫背ではない。首が壁につかないのが 首猫背、背中もつかないのが、腰猫背。 ・静止して立っているときに、片方に重心を置く人や、脚を開いて立つ癖のある人には、猫背の可能性がある。 ・姿勢にしても、歩行にしても、座っている姿も、理想的なカタチを自覚して、常に意識すること。 ・中年女性のモデルが姿勢矯正のポイントして「モデルは壁の御友達」という言葉と方法を紹介していた。 先ほどのように壁を背にして立って、膝の前に組んだ両手を首の上まで引きあげて姿勢を正すのを日常とする。 等々・・・ 参考になる内容であった。 ウォーキング時の姿勢と、歩き方を理想的なカタチを意識していると、普段と違った歩きになる。 新幹線の窓から、駅のホームに歩いている人を上から見ると、7割かたの人は猫背に近いのが見て取れる。 面白いもので、胸を張ってリズムかるに歩くと、自信が沸いてくる心持になる。 何時も颯爽としている女性の話によると、「腕まくりをして、胸をはり、リズムカルに歩くと、自分に自信がつく。 どんなに御洒落をしても、猫背で自信無さそうな姿は、全てを壊してしまう」とか。 衣服と、姿勢は、もっとも大事な身だしなみ。 年齢を重ねると自然に俯きかげんになる。 私の身辺では猫背の人は少ない。 新入社員の教育で、まず教えることは「猫背を直すことから始る。 アゴを引いて、胸を張り、背筋を伸ばすことから入る。 接客商売の基本である。
・・・・・・・・・ 2726, 議論に絶対負けない法 −2 2008年09月21日(日)
ランダムに面白そうなところから選んで考えてみる。「力の議論」の十大要素が纏めてあったが、 この本の要点である。よく読むと気がつくが、議論というより人生を前向きに活き活きいきるコツでもある。 孫氏の兵法にも通じる。 この本から多くのことを教えられる。 ー「力の議論」の十大要素ー (12章、どんな議論でも「絶対負けない」十の法則より) 1、まず十分に準備しなさい -自分が議論そのものになるまで、準備しなさい。 -適切な準備には、ストーリーを話すことと、関係者に役を割り当てることが必要だ。 2、あなたの議論を受け取ってもらえるよう相手の心を開かせなさい −ただただ真実を語りなさい。自分自身になりなさい。それで十分だ。 3、ストーリーの形で議論しなさい −おとぎ話、たとえ話は皆、成功する議論に欠かせない道具だ。 4、真実を語りなさい−力の議論は、真実を語ることに始り、真実を語ることに終わる、真実は言葉だ。 5、相手に自分の望んでいることを話しなさい −人間とは、どんな種類のどんな性格の苦しみも耐えれる種なのだー ―ただ一つ不正という苦しみを除いては― 6、皮肉を言ったり馬鹿げたことを言うのを避けることーユーモアを使う時に注意しなさい。 相手を侮辱する言動に注意しなさい。皮肉屋、馬鹿にする人、卑怯な人を尊敬する人はいない。 相手に敬意を払うことによって私達は高い次元に上がる。忘れてはならない敬意とは相互に働くものだ。 7、論理は力だ −サミュエル・バトラーが言ったように、「論理は剣に似ている。論理に訴える人は、論理に滅ぼされるだろう」 8、行動と勝利とは兄弟だ−もっとも緻密な防御をするより、最悪のものでも真正面から攻撃をした方がよい。 絶対に相手に主導権を握らせてはいけない。攻撃する時には防御をしてはいけない。 9、最初に自分の議論の弱点を認めなさい −自分から弱点をさらけ出した方が良いだろう、そうしないと相手は可能な限り陰険なやり方でそれを暴くだろう。 それを先に認めれば信頼を得ることが出来るし、認めたことに何も言うべきことがなくなる。 10、自分の力を理解しなさい −自分自身に許可ー勝つ許可だけーを与えなさい。 だが放漫と横柄と愚かさは近い親戚であることを忘れないことだ。 −− 以上だが、物語にするための準備を積み上げること、それも真実の、ということか! 次は、その準備について述べている部分を抜粋して考えてみる。日本の検察の手法に、これがあるという。 告訴する時に、荒筋をつくって強引に容疑者を当てはめようとする。そのストーリーを書いてしまえば、 真実は二の次になってしまう。これが、恐ろしいという。マスコミも、しかりである。 それだけ、物語の力があるということだ。 共同幻想は、物語から沸いてくる。 そういえば、ここで「物語のつくり方」みたいな本を取り上げたことがあった。
・・・・・・・・ 2007年09月21日(金) 2362, コーヒーの由来 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2008年09月21日)ー 〜〜〜〜 以上が、コーヒーの歴史と由来である。 ところで余話を一つ・・・・ 昨年春のこと、事務所の至近距離に喫茶店が移転してきた。 50歳前後の夫婦が10坪足らずの店を開いているが、一年は持たないだろうと思いきや、一年過ぎても、 それなりに客が入っている。開店・閉店を含め朝の7時から夜は9時過ぎまで、盆暮れを除いて年中無休。 実際のところ、喫茶店という業種は20年以上前から成り立たなくなってしまっている。 一部の例外はあるが、年中無休か、他の収入手段があり、趣味的に運営しているか、喫茶店は表向きで、 実は食堂の店が例外的に生き残っている。 チェーン店のコーヒーショップは、あれは喫茶店とは別物。 この話は長くなるので、ここでは止めておくが・・・
・・・・・・・・ 2006年09月21日(木) 1997, 「私」のための現代思想 読書日記 \(^▽^*)おは! (光文社新書) 著者・高田 明典
「私」とは何か、「他人」とは何か、そして他人の集まった「世界」とは何か? を解りやすく書いてある本がないかと思っていた矢先に、図書館でこの本に行き当たった。 哲学、そして現代思想で、常に言及している問題である。 この本では、<言葉><価値><社会><世界><物語><私><身体><他者>という現代思想の 主要概念を検討する構成をとっている。 この著書の中で、凝縮されたポイントを抜粋してみよう。 まずは「はじめに」の中から、ポイントの部分を抜粋してみる。 ・フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、哲学の教師でありながら、一介の労働者として工場に入り込み、 そこで辛い体験を通して、自らの思想を研ぎ澄ました。そこで工場での体験で意志の発揮の機会はことごとく 奪われてしまいました。そこで私たちは「時間の流れ」にさからうことはできません。 しかし時間の流れの中で、次に到来する時点において何をしているかを思い描き、その通りに行動することはできます。 それを人は「意志」といいます。また、「精神」とも、「魂」ともいいます。すなわち「魂」とは、 人が「時間を支配すること」です。もしも「次の瞬間」、もしくは「次の時間単位」に発生することが、 自分の意志とは全く関係なく起こるものであれば、人は「瞬間的に生きる」ほかなくなります。その自由は失われます。 ・教養とは「自由になるための技術」です。そして哲学や現代思想は、その柱の一つです。私たちに与えられた武器は、 思考であり言語であり論理である。それ以外の武器を、私たちは持っていません。自由になるための「技術の束縛」 から逃れるためには、「技術を所有する」ことです。「お金の束縛」から逃れるには、「お金を所有」するしかありません。 所有するとは権限を持つことと同義語である。 何に束縛を感じるか、その人によって違います。 その違いは、それぞれの個人の「物語」の違いによります。物語は「人が生きていく上での行動の道筋」です。 束縛は、外部に存在して人の行動を制限するものではありません。 その人が採用する「物語」が遂行していく途上に 存在する「壁」のことです。「金銭という束縛」を感じているとすれば、それは「金銭が壁となって邪魔をする」という 「物語」が遂行中であることを意味しています。「思考による束縛」の場合は、「思考を捨てる」ということは、 すなわち「何も考えない」ということなので、その実現はかなり難しいと思われる。 「思考の束縛」から逃れるためには、「思考を所有する」ほかはないようです。 おわりに (。^0^。)ノホンジャ、マタ! ・・・・・・・・ 2005年09月21日(水) 1632, 記憶する身体、飛翔する意識 ー 日野敬三 対談集 −3
柄谷と保坂の違って、三木は本人自身が生死の淵の大手術をしているので対談の内容は、よりリアルになっている。 ー手術の前前日、夜に病院を抜け出して、信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人座って茫然とコーヒーを飲んだのです。 ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。努め帰りの人たちがドンドン出てくる。 以前だったら、疲れて不幸そうな顔をしているなと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔が、 みんな輝いているのですよー のクダリなど、挫折を何度か繰り返してきた経験から、痛いほど解る。 現在、リストラにあった人の心象風景そのものである。 以下は、少し暗いが真実の声である。 ー記憶する身体、飛翔する意識ー 三木卓 ー三木 生死ぎりぎりの大手術をして、人生の荒治療を食らったという感じは大いにありますね。 突如として目の前に「シャッター」がダーンと落ちてきたときには、やはりかなり慌てた。 多少は死のことを考えていたつもりなのに、やはり本番の覚悟はできてなかったのですね。 ー日野 『2001年宇宙の旅』というSF映画の中に、モノリスという不思議な金属が出てくる。 ツルツルの黒っぽい。 三木さんは先ほど、シャッターとおっしゃいましたが、僕はあれが目の前にスーッと現れた気がしたの。 ー三木 モノリスが?怖いな! ー三木 病室の窓から、恵比寿の町の灯が見えるんです。そうすると街のどこかのバーで僕が一杯ひっかけていてもいいわけですよ。 ところがその風景が、何か、明治時代のガス灯の世界か何かに思えてくる。その間にあるガラスは厚いですね。 驚くほど厚いガラスなんです。そこに僕が行って飲むということは素晴らしいが、もう絶対できない。 ー日野 僕は、手術の前前日、夜に病院を抜け出して、信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人座って茫然とコーヒーを飲んだのです。 ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。勤め帰りの人たちがドンドン出てくる。 以前だったら、疲れて不幸そうな顔をしているなと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔が、 みんな輝いているのですよ。僕はここにいて、10~20m先の改札口の皆が帰っていく姿が、この世のものならぬ光に包まれて、 そして自分とそこの間には絶対の隔たりがあった。その光景は忘れられません。 ー三木 日野さんも僕も、シャッターが落ちたときから、そういう時間が始まったんだと思う。 僕はときどき高校に講演に行くんですが、入試に絶対に受かる方法があると、冗談めいたことを言うんです。 君達には、まだ一年があると思って悠々としているだろう。しかし、入試一ヶ月前になったら必死に 勉強しないではいられない。それは一ヶ月という時間ならそれを実体として把握できるからだ。 その実感としての時間を一年前に見通して把握できるなら、つまり一ヶ月前の時間の質と 同じように一年前の時間を感じることができればいい。きっと優秀な人間はそういう能力を持っていると思うと。 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2009年09月21日)ー ーー 死を直面する時に、だいたいこんな気持ちになるのだろう。そして、ひとり悶絶して諦念するしかないのだう。 そのときの準備のために、人類は宗教をつくりあげたのだ。最後の最後は、『神様助けてください、お願いします』 になるだから心に迫ってくる。しかし、この二人は神ではなく科学的に死を見つめている。
・・・・・・・・ 2004年09月21日(火) 1267, 書いてなかった旅行記ー2 カナダ旅行紀ー2
バンフスプリングス・ホテルが一つの芸術作品のようである。重厚な石造りの建物に、豪華なロビーとレストラン。 もちろんホテルとして、世界的に有名なホテルである。その庭先にはレイク・ルイーズがある。 いや、レイク・ルイーズのほとりにホテルを建てたのだ。朝、昼、夜(白夜)とその湖の色が大きく変わって見える。 ロビーの窓が、あたかも絵の額縁のように作ってある。早朝、その窓から見た湖の美しさに息を呑んでしまった。 白夜の11時過ぎに、一人でレイク・ルイーズの畔のウォーキングコースを散歩をした。 よそ者は入ってくるなと脅しているように稲妻と雷の音が鳴り響く、自リスや、ラッコが威嚇の声を上げる。 それが、その背景とピッタリなのである。恐ろしくなり引き返そうとした。ふと人の気配するので、目をやると若い白人女性が 一人でハイキングから帰ってきたところだった。男でも恐ろしいところをよく一人で歩くものだと感心をした。 高台から見えたペイト・レイクの美しさも心に焼き付いている。コバルトブルーの色は、過って一度も見たことのない色。 右を見ても左を見ても、全てが絶景というのがカナデアン・ロッキーの特徴である。 旅行の都度、添乗員に必ず次の質問をしていた。「貴方の主観でよいから、一番良かったところは何処ですか?」 殆どの添乗員答えは「カナダのロッキー」であった。次がスペイン。そして、インドであった。 そういわせるだけのものは確かにあった。ところで現在の私に同じ質問をしたら、迷わず、「ケニア!」と答える。
・・・・・・・ 2003年09月21日(日) 900,『 V・E ・フランクル』についてー2
彼の言わんとすることは ー「よく働き、よく遊び、よく学べ」ということだ。 「よく」あるためには、この3つのバランスがとれてなくてはならない。 よく働くためには、よく遊び、よく学ばなくてはならない。 よく遊ぶためには、よく学び、よく働かなくてはならない。 よく学ぶためには、よく働き、よく遊ばなくてはならない。 私の場合は、 ・よく働くは、現在の事業の発展・維持である。 バブルがはじけて大変だが、5年~10年先を読んで、事業構造の変換が当面の課題である。 ・よく遊ぶは、ウォーキングや、秘境旅行、映画・TV鑑賞。 ・よく学ぶは、読書や人間・社会観察である。 この3つはそれぞれ重なり合い、同じであったりする。この「随想日記」は私にとって3つが含まれている。 「何を」という目的・目標をハッキリさせ、そのプロセスを楽しみや遊びになるまで、徹底することだ。 フランクルは死と常に隣りあった異常な状態の中で、人間の可能性を見た。その「人間の可能性」を大学に 復帰して講義をするイメージが、彼を収容所から生還させたのだ。収容所で作業のため整列して歩いている時に、 数?上から見ている自分がいたと書いていた。これなど究極の体験から生じる脳の昇華であろう。 彼のコぺルニクス的大転換は「人生に何かを求めるのでなく、人生が何を求めているか」を常に問い続ける 重要性に気づいたことだ。 それも死の収容所の究極の状況の中でだ。 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2008年09月21日)
・・・・・・ 526,社会の変化 - 2002年09月21日(土)
日本も社会の価値観が根本的に変わろうとしている。この失われた10年間で政治も企業も宗教も権威が失墜してしまった。 一昔前の一流企業といわれるところが、倒産や赤字や不祥事で全く権威を消滅してしまった。代議士や大臣を偉いと 思う人が全くいなくなってしまった。宗教もしかり、「集り」という姿がオウム教で露出してしまった。 「家」という制度も根こそぎ変わろうとしている。 江戸時代から続いてきた「日本的家制度」が、新しい年代の出現や 我々の意識の変化で根こそぎ変わってきている。家のオモヒの仏壇も仏教がまだ権威を保っていた時の文化だ。 法事も地味なものになるだろう。農家や商家が激減し始めきたことも「家制度」の崩壊の原因になっている。 家業としての商売や職業が成り立たなくなってきた。 周辺でも多い事例として、実家にUターンで帰ってきたが、 家業が成り立たなくなり再び都会に帰っていくケースが多い。「帰ってこないほうが良かった」といって。 初めから帰ってこないケースも多い。結婚式も最近、当人が会費制度でやる地味婚が増えてきている。 家どうしの顔ミセから、本人達のお祝いの会に変わっている。家単位の行事が一づつ消滅か縮小してきている。 葬式や法事もこれに近づいてくるだろう。何かの本に、「家業一代、家二代の時代」と書いてあった。 私の場合、この十年間で年で数回海外ツアーに出ているせいか、更にこのホームページを開いたせいか、 人間関係の感覚が変わった。趣味の同じ人と、側にいなくとも何かどこかで繋がっている感覚がある。 気持ちの距離感が変わってしまった。 やはり情報革命が背後にあるのだろうか。
・・・・・・ 2001/09/21 9・11事件は、第三次世界大戦の開戦?
第三次世界大戦開戦!ーほんと!まだピンとこない。しかし一日一日とその重みを感じる。 長期になる宗教戦争だ。怖いのは北朝鮮が関ってきたかどうかである。30~40%の確率で関っていると見る。 あの男ー金正日なら可能性大だ。その場合もちろんアメリカは原爆を使う可能性がある。 そうすると日本海側の原発がまず狙われるだろう。 ー以下字数の関係で中間をカットしました。(2007年09月21日)ー また日本は世界恐慌を狙ったイスラム過激派に狙われて当然である。 パレスチナの?2が殺されたので必ず大事件がおきると思っていたが、まさかここまでのテロをやるとは! 企業はまず生存対策に全てのエネルギーを向けなければならなくなった。 競争対策、成長対策などいっていられなくなった。一年後の世界の経済環境は想像も出来ない。 この宗教戦争の中を生きていかなくてならないからだ。それも大きいツケを払いながら。 終身雇用が揺らぎ、ついてゆくべき上司に頼む風潮がなくなったこと、「家」と「家」から「個人」と「個人」 の結びつきに変化したためである。更に仲人を頼まれるのを嫌がる人も増えているのもある。 三年前には20?がまだ仲人をたてていたが、そのサラに4分の1に激減した」という。 そういえばこの数年来の結婚式で仲人をたてた結婚式はみたことがない。 非常に良いことだ。昔から、仲人が二人の経歴を長々述べて、ただ祭壇に黙って座っている姿が滑稽で、 気の毒でさえみえた。家という制度が確実に破壊していることもある。これは決して良いことではない、 少子化の時代の現象でもある。反面、気楽に結婚して子供をつくるのはよいが、家庭を維持できなくなり、 先日の「幼児殺人事件」に見られる現象が度々起こってくる。少し減ったというなら解るが、ほぼ消滅とは驚きである。
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