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2009年09月02日(水)
最近、歴代のコカコーラのコマーシャルをまとめたDVDが発売され話題をよんでいる。 それぞれのCMに出演しているタレントと、その時代背景が織成すミニ物語が、そこにある。 目隠しをして、ファンタとコークの飲み比べをすると、ファンタのほうが美味しいと答える人が多い という実験結果がある。 CMと、ビンのカタチのイメージの洗脳が、そうさせているのだ。 「コークのビンはグラマー女性の全身を模ったもので、理想的なスタイル」という。 ーその創製の逸話を偶然ネットで見つけた 【 1923年、アメリカのある町にケップマン・J・ルートという青年がガラスビンを作っていた。 かっこよく、しかも中身が多く入っているように見えるビンはないものかと考えていたある日、 恋人がふらり、仕事場へ入ってきた。 いつもより色気がある。 タイトスカートをはいていた。 このスカートは膝のところが細くなって歩きにくいのが欠点だが、ヒップの線が美しく出る。 彼は、それを元にしてコカコーラ用のビンを作って、社長のところに出かけていった。 「スタイルがよく、握り心地も良い。すべらないビンのプランができました。」社長は気に入ったが素知らぬ顔をした。 3日目、ルートはビンとコップをもってまた出かけていった。 「社長さん、このコップとこのビンでは、どっちが容量が多いと思いますか」 「そりゃ、ビンに決まっているさ」 青年はコップの水をビンに注ぎはじめた。 コップの水が入りきらないうちに、ビンは、いっぱいになった。(う〜ん) 契約は即座に成立した。 ケップマン青年の得た金は300万ドルから600万ドルだといわれている。】 以上だが、米国でグラマー女性がコーラと供に看板に書かれた絵を見たことがある。 「何でグラマーな女性にセクシーさを感じるか?」というと、 「騎馬で攻めた男が片手で女を持ち上げやすいのが、腰が括れていた女」だから、という。 本当のような嘘のような話だが。 コーラも、括れていて持ちやすい。 ところでコーラの原料のコークは麻薬のコークじゃないのか? 薄けりゃ害にならない? 何か飲みたくなるのは、そのせいか? それに刷り込みでもされれば・・・ 水に麻薬を混ぜて数十倍の利益をだしているのだから、ドエリャイ儲けになる。 あの地元の超大物(故人)がコーラの日本の販売許可の見返りに数パーセントの利権を得ていた、とかいう 噂があったが、本当かウソか? 「ありゃ、コークを原料とするから駄目」と言われりゃ、出すしかないのは分かる。
・・・・・・・・・ 2707, うつ病について 2008年09月02日(火)
精神病や精神症について、何度か書いてきた。 誰もが、何らかの精神症は持っているし、 その一歩手前の経験をしているはずだ。(まともであればだが)言うか言わないかの差だろうが、 家系や、性格もあるから極々軽い人もいるのだろう。青年期と、老年期は誰もが躁鬱気質を持っており、 乗り越え方は、それぞれある。私も神経症など多くありすぎて説明するのも大変だが、それを気にしなくなったのは、 50歳過ぎた頃だろうか。私を知っている人は想像すらできない神経症を、一人静かに?乗り越えてきた。 青年期のうつ病的な体質も、神経過敏症も、視線恐怖症も、現在では殆ど消滅をした。 誰もが、何らかの深刻な神経症を持っているのを実感したのは、40歳を過ぎてからである。 60歳ー還暦頃から、少し鬱っぽい日々が多くなっている。もしかしたら、この時期になる初老性鬱病の触りかもしれない。 しかし、私の場合は、絶対に?重症にはならない確信がある。 まあ、明日のことは分からないが。 北欧には白夜の反対の黒夜があり、一日の日照時間が数時間しかない。その冬の時期に起こるうつ病が深刻と旅先で聞いた。 「季節性感情障害」といい、大半は女性がなり、家系もあるという。 治療には、特殊の明るい光線を一日三十分当てると症状がかるくなる場合が多いとか。 元々、エデンの園はアフリカと古人類学者の説があるが、その反対の冬の黒夜は病気を誘発するのだろう。 日本で最も自殺の多いのは秋田県。北欧と同じく冬の時期が長いのが自殺を誘発するというのも肯ける。 ハワイやフロリダで波の音を聞き、パイナップルやオレンジでも食べ、踊って歌っていれば鬱などなりようもない。 私は一月生まれもあり、冬の時期が嫌いではない。むしろ好きであるが、美味い餅を食べ、熱燗で鍋をつつき、 コタツでDVDの面白い映画を見て、熱い風呂にユックリ入っていればマイナスな気分になろう筈がない。 しかし鬱病の恐ろしさを周辺で見聞きしている。無線のチューニングのように、周囲のマイナス、 過去のマイナスを拾い上げ自分の中に蓄積していく。人生の様さまな後悔のネタが次々と思い浮かんできて、 その海に溺れ、もがくようになる。そして深い深い鬱の闇に己が沈没してしまう。 それが鬱病である。 その数歩手前の精神状況が殆どの老齢者の心のうちというから恐ろしい。 そういう連中が寄り沿うと、人間は後退をしていくのがリアルに見えてくる。 他人事ではない、まったく。とにもかくも、腹から笑える場所を幾つか持てるかである。 私が鬱にならないという自信があるのは、毎朝の散歩があるからだ。これを始めて25年ほどになるが、 朝の陽光と、新鮮な空気と、鳥と虫の鳴き声と、川のセセラギが身体にも精神に良いからである。 さらに土日の笑いの時間の設定である。 それと毎日一度の仏壇の前の祈りと、般若心経である。 それを実行していても、どうも少し欝っぽいのは、そういう時期のためだろうか? 過去のマイナーの記憶がフラッシュのように飛び出してくる。 それが、歳をとったということか? 欝的気分も日常の塩味として、必要であるが。 -ω-)..。oо○(゚+。鬱々゚+。) ・・・・・・・・・・ 2007年09月02日(日) 2343, ポスト・モダン主義とは (o゚▽゚)o オハョ〜 ゴザマス!
最近は、あまり以前のような大物?が、居なくなった。 これは時代の変遷のためである。 高度成長期の、田中角栄とか、小佐野賢二とか、堤義明とかいうのは、存在しえなくなったのである。 存在したところで、「それが何じゃい!」と誰も仰ぎ見たりはしない時代になったのである。 解りやすい事例として、イチローが大リーグで超一流の選手として認められたところで、 「ああ、そういう人がいる、凄いな~」で、それはそれはご立派なことで!と、頭に過ぎってお終い。 それより、それぞれが自分の好きなことを見つけ、それぞれの楽しみを求める時代になったのである。 それは考えてみれば当たり前。それだけ、社会が成熟したということだ。第二次大戦後、マッカーサーが 日本を占領したとき言ったのが、「日本人は10歳の子供」である。欧州から見れば、そんなものかも知れない。 といって、西欧が未開の原始人より文化が進んでいるということではない。 モダン=大きな成功とやらを求めた時代は終わったのである。これを解りやすく書いたある本があった。 『世界をよくする現代思想入門』高田明典著である。 情報化社会は、ポスト・モダン主義をますます加速させる。 日本は、いや世界は、9・11が現象として大転換期と日となる。その意味で、あの男ービンラディンは歴史に残る。 アメリカ現大統領は、「アメリカの凡庸・親子大統領の息子」として歴史に留める。 私が生きた戦後のアメリカ大統領では、その意味ではカーターと肩を並べる??の人物。 その程度ということだ。 この本の一部を抜粋してみるー P-158 ーーーーーーー 20世紀を特徴づける概念として「大きな物語」があります。 私だちの社会は、二十世紀前半(モダン)の社会において、「大きな物語」を信じて突き進んできました。 その大きな物語とは ・「理性・知性によって社会は必ず理想郷へと近づいていく」、 ・「科学は、私たちを幸福にしてくれる」というものであり、 ・「勉強すれば社会的に成功して幸福になれる」であり、 ・「お金持ちになることが、人間の幸せである」などなどの「物語」であった。 二十世紀前半においては、多くの人たちがそれを「信じて」いたが、 一九七〇年代以降、そのような「大きな物語」を信じられなくなるような出来事が多く発生し、私たちの心の中に 「不信」が発生しました。科学は私たちの社会を「幸福にする」どころか、むしろ「不幸にする」ものでもある。 知性や理性によっては「理想郷の実現」はできそうもない、ということです。 そのような状態を「ポスト・モダニティ(ポストモダン状況)」と呼ぴます。 そのような「大きな物語への不信」の中で、芸術表現はいったい「何ができるのか」ということを考えたのが、 ポスト・モダニズムのそもそもの端緒でした。 なぜなら、それまでの「表現制作物」の多くは、 「その社会や文化が信じている価値の表現を行う」ということを、その駆動原理としててきたという側面があるからです。 「大きな物語」が崩壊した今、「何を表現すればいいというのでしょう。 もちろん、「次の時代を担うような価値観の提示」さえ、忌避されます。 もはやそのような「大きな価値」「支配的な価値」さえ信じられなくなっているのが、現代の私たちです。 この二十世紀末から二十一世紀にかけての表現分野は、すでに「ポスト・モダニズム」のような様相を呈しています。 (字数の関係で中間カット2008年9月2日) ーーー 面白い時代である。ただし、それぞれが自分で考え、決断しなければならない厳しさを要求されるのである。 それぞれが自由を見出し、そこに価値=意味をつくらなければならない。 (○´ω`○)ノ**SeeYou Again! dato ・・・・・・・・・ 2006年09月02日(土) 1978, クルマが売れない! Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning ある新聞の経済欄で「クルマが売れない!という記事が出ていた。 景気回復に比例して車が売れ出すという業界常識が崩れてしまった。 車そのものの魅力が低下、車が日用品化してきたからだ。これまでの車は30年から40年前までの時計みたいなもの。 ロンジンとか、ローレックスとか、持っているだけで偉そうな錯覚をさせるイメージを加えて売っていた。 ステータスシンボルの要素が大きかった。ところが現在は、どんなよい車に乗っていても何の価値も感じなくなった。 むしろ頭の軽さが目立つだけだ。この情報化でモノ、コトへの価値が見え始めてきたのだ。 7月の新車販売台数が(軽自動車を除いて)13ヶ月連続で前年実績を下回ったという。 軽自動車を除くと、13ヶ月も前年を下回ったのは1968年以来という。 (軽自動車を含めると4ヶ月連続の下落) あれだけ騒がれて登場したトヨタのセルシオの国内販売が、当初予定していた計画を遥かに下回ったという。 この背景には日用品化した以外に、消費の多様化がある。車に振り向けられた消費者のお金が、 デジタル携帯音楽プレーヤーや、薄型TVなどの家電製品や、携帯電話の通話料に向けられているためだ。 確実に消費者の欲しいものの中の、順位が下がっている。かって本田宗一郎が「ライバルは同業者だけではない!」 といって言葉が、さらにシビアに聞こえてくる。車購入の中心だった団塊の世代の、車への興味も確実に下がってきている。 年功序列の賃金制度がホボ崩壊し、「いつかはクラウン」という購入パターンは過去のものになったこともある上に、 その年代が実質定年を迎えつつある。「クルマが売れない」というキーワードで検索をかけたら、 日産と三菱自動車の販売不振の内容が出てきた。かなり深刻のようだ。日産のゴーンの戦略も尽きてきたようだし、 鼻持ちのならない「三菱のブランド」が大衆に嫌悪感を持たれてしまった。 フルラインのトヨタ、若者・スポーツ感のあるホンダと、軽自動車のメーカーと、それぞれの特化が顕著になってきている。 ところで私自身14年近くトヨタのソアラに乗っている。前の型のソアラに4年半乗った後、新中古のソアラに乗り換えた。 現在もエンジンもしっかりしているし、車自体14年以上乗った車という古さを全く感じない。 まだ8万キロしか乗ってないが・・・ また十年前より、高速自動車の長いトンネルに入ると、閉所恐怖症みたいな 感覚になってから遠乗りをしなくなった。そのため「近くの移動の手段であれば何でもよい!」という気分になった。 おまけに前の型のソアラがあまり出回ってないので、古車を乗っている感じがない。 60歳になったら最後の車を買おうと思ったが、そんな気分にもなれない。 それなら海外旅行に、もっと行ったほうがよい。その気持ちは、一般の団塊の世代と同じなのだろう。 売れない理由は、流行語でいうと、社会の比重が中流社会から下流社会へと変化していることもある。 それが一番の理由だろう。 バイヾ( ̄ー ̄ヾ)))) ・・・・・・・・ 2005年09月02日(金) 1613, 愛とはなにかー2
愛、それも「無条件の愛」こそ世界が必要としている。無条件の愛とは、期待も要求も制約を持たないで愛すること。 過去を振り返ってみると、自分が受けた愛情で深く残っているのは両親の愛情である。 これは無条件?の愛情だからこそ深く残るのだろう。それでは「条件付きの愛情」の、「条件」とはどういうものか? ある本(*)にキッチリと箇条書きであった。その共通点は、自分の利益・欲を満たしてくれる前提条件である。 そして、その中に自己認知も含まれているが、人間なら当然のことである。その「条件」を細かく当たると愛など、 自己愛の延長でしかないし、キリストも「自ら愛するように、汝の隣人を愛しなさい」と、自己愛を認めている。 ーその「条件」を、幾つか抜粋してみる。『わたしは、あなたが・・ の条件をもし満たすなら、あなたを愛します。』 ・あなたが、私をあるがままに受け入れ、尊重するなら。 ・私を認め、勇気づけ、理解してくれるなら。 ・私を楽しませ、喜ばせ、飽きさせないなら。 ・私に対して誠実で、善良で、忠実で、正直であるなら。 ・私と共通点を持っていたり、信念や興味が共通なら。 ・私を責めたり、批判したり、裁いたりしないなら。 ・私のことを大人として、対等に扱ってくれるなら。 ・私のことを最優先にしてくれるなら。等々、いくらでもある。 これを読むかぎり、恋愛など「条件付のエゴの塊」である。 成田離婚は、まさにその条件をお互いに知り、誤解して結婚して、理解して離婚する集約した姿である。 「バカな女」が男を渡り歩くのは、この条件付愛を真の愛と信じているからだ。 他人事ではないか。無条件の愛とは、我われの深奥にある神的自己の表れでもある。 汲み続けていないと直に濁るか、水が枯れてしまうが。 *「愛することを選ぶ」 誠選書房 E.キャディ著
・・・・・・・・・ 2004年09月02日(木) 1248, ダイエットに100万賭ける−1
二年ぶりに、契約更新で柏崎の保険代理店の社長が来社した。 スリムになってスッキリした様子なので、どうしたのか聞いたところ、ダイエットに成功したという。 彼の知人の保険屋さんから賭けを持ち込まれたそうだ「お互いのダイエットで、失敗したら百万を払う」 期間は4ヶ月で、体重の12?、本人にとって10?である。賭けた仲間は7人。まだ全員の結果は判明はしていない。 但し、二人は成功をしたという。彼のとったダイエットの方法は、三食の食前にグレープフルーツを一個食べつづけて2週間、 7キロも痩せたそうだ。それと家族が百万という金額に驚いて、食事に対してコトゴトク口出しをしたというのが、 さらに効果を高めた。そして4ヶ月にかなり余裕を持って達成することができたとか。 金額が1万や10万では、真剣にならなかっただろうが、百万円の金額が、真剣さを増したのだ。 一生に一回あるかないかのこと、必死になりざるをえない。私のダイエットといえば、朝の散歩と、 肉食と揚げ物をなるべくさけること。それと、甘味もの(缶ジュース・砂糖・お菓子)を口に入れないことである。 それと週に2〜3回は体重計に乗って、少しでも増えたら食べ物に注意する。 この十年間はほぼ理想的な範囲であるが、これに酒量を控えれば理想的なのだが。 崖っぷちに自らを追い詰めるこの方法、大きなノウハウである。考えてみれば、事業も人生も同じことがいえる。 −つづく ・・・・・・・・ 2003年09月02日(火) 881, 讃岐うどんの店
最近ブームになっている讃岐うどんのチェーン店に行ってきた。100円から讃岐うどんを食べられる客単価400円の店だ。 揚げ物などを皿に取り、うどんを注文して勘定をする方式をとっている。 社員食堂のセルフ式をそのまま讃岐うどん屋に取り入れた業態である。 ・一回目に食べたのが「肉コロッケと、掻き揚げと、普通の讃岐かけうどん」で約500円であった。 ・2回目は、「100円の小のかけうどんにオニギリとハンペンと天ぷら」で400円であった。 客層は家族ずれからサラリーマン風とOL とばらついていた。 (字数の関係でカット 09年9月2日) ・・・・・・・ 2002年09月02日(月) 507,私の世界十大ニュース
56年間生きてきて、大きい時代の変化に驚きである。 21世紀を垣間見た一つの生命の視点、驚きベスト10を私の主観で書いてみる 1、何といっても、インターネットである。 ただただ驚きだ。 キーワードを幾つか打てば世界中の情報が一瞬で画面に出てくる。 2、ソ連と東欧の崩壊。 3、日本の勃興と衰退ーこれだけ劇的になるとは。 4、パソコン、TV機器、などのハイテク機器の進歩。 5、世界中を気楽に多く行き見る事ができたこと。 6、宇宙への知識の進歩。 7、人類の月への着陸。 8、中国の文化大革命。 9、アメリカの9・11のテロ。 10、キューバ危機とケネデーの暗殺。 恐らくこの十年はもっと大きい変化がおきるのではないだろうか。
・・・・・・・・・ 2001年09月02日(日) [129] 人間関係
人間関係、これが私の専攻した学問である。 私を知っている人間はほんと!と驚くはずである。 全く人間関係に,はちゃめちゃであるからだ。 といって人間関係に悩んだことはない。 悩むような場をつくらない、行かないからである。 よかったと思うことは、社会そのものが学問内容になるからだ。実社会は人間学であるからである。 末っ子ということと、寮生活と、勤めと、事業の中で、あらゆるタイプの人間から赤裸々な現象として割り切って見れた。 皆それぞれの過去ー血縁を背負って生きていることが解った。その人間関係にどうしてもエネルギーを使うからだ。 人事管理のゼミの時の総意は、組織は能力は創れないというのが結論であった。 しかし、これは私の勝手な思い込みだった。
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