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2009年08月06日(木)
会津八一は「学規」を作成し、 自ら及び教え子達の範とした。 ふかくこの生を愛すへし かへりみて己を知るへし 学芸を以て性を養うへし 日々新面目あるへし ー 十四ヶ条 ー 1 感情を以ってうたふこと。 2 真に内心から湧き上がる感情無きときは、漫然として歌を作らんと思わざるべきこと。 3 世才・文才・常識、そんなものでは、自分も感動してをるにあらず。それを以て他人を動かし得ざること当然なり。 4 感情を単純化してうたふべし。 5 表現も単純にして直裁なるを尚ぶ。徒に曲折せるは、真情の流露をさまたぐ。 6 詞句の曲折は初学の能くなし得るところにあらざるも、老熟してこれを自在になし得るとも、 真情の枯渇し居らば、かへりて厭うべきなり。 7 用語は常人の耳に遠からざるものをよしとす。ろくろく学問を精しからぬ者が専門家振りて、 古語歌謡といふようなるものを襲用するは、最も厭うべきことなり。 古語を用ふるは、やむを得ざる時にのみ限りて許さるべし。 8 散文にていふに如かざることを歌として歌ふは、根本的に心得ちがいなり。 9 和歌は我国のみにあれども、詩歌は如何なる民族にもあり。和歌はその一種なりと知るべし。 我国の歌人なかまにあらざれば解しがたき如きことを、詩歌の本道とも本質とも認めがたし。 外国語に翻訳しても、その国の人々によりてたやすく解せらるるやうにてありたし。 10 従って、その辺の歌集をのみひもどき居りて、それで勉強したりとおもふは不心得なり。 ひろく世界古今の詩歌を味ひみるべし。 11 いやしくも歌を作るは容易にあらず。うかうかと濫作して、よき歌の出来んことを希ふは無理なり。 一方心境を練り詩歌を弘むるとともに、真に感興の内に催すをまちて、精細を傾けて歌ひ出すべし。 12 要するに作歌は、天才と人力とをまちて、しかも精進して初めて為し得るのみ、漫然たる態度にてたづさはるべきにあらず。 14 書外は工夫をつみて悟得せらるべし。 〜〜 八一は新潟の人で名前は以前より知っていたが、 これだけ含蓄のある学規があったことを知らなかった。 これまでの生き方で、甘さを痛烈に批判された気分である。 特に、「・ふかくこの生を愛すへし ・かへりみて己を知るへし ・学芸を以て性を養うへし ・日々新面目あるへし」は、 この年齢になったからこそ分かるところがある。更に十四ヶ条も、これは作歌の道だけでなく、人生の生き方に通じる。
・・・・・・・・・ 2680, 漠たる不安 2008年08月06日(水)
アメリカのサブプライム問題や、中国の動乱の予感や、イラン・イラク問題など 世界は漠たる不安に覆われている。 それに対して二つの取り得る態度がある。 ・それから目をそらさずに色いろ対策を練って対処をするか、 ・将来に対してあまり深く考えずに、ただ目の前のことだけに対処をして 将来に対しては自己逃避をするかだ。そのためには、全て目先の状況の責任を押し付け、 問題解決から背を向けるだけに徹する。 現在の日本の企業も、個人も、この後者の姿勢が大勢のように思える。 ただ、大津波を前に逃げることも出来ず、呆然としているのが現状。 将来が明るく、前向きになれればよいが、この現状では致し方がないのも解るが。 将来に明るさが見込めないと、目先の直感に頼り、論理的思考を無くしてしまう。 思考停止の状態が、現在の日本の政治や経済において顕わに出ているといってよい。 こういうときほど、何が問題なのかジックリと冷静に論理的にならねばならない。 漠たる不安の隠れた?原因として世界が大きな激動期に入ったことにある。 その大きな要因は、情報化による、グローバル化である。 特に、共産圏が解体して、資本主義社会との垣根がなくなり競争が激化したことが大きな要因だ。 また情報機器の進歩で、今まで隔離していた影の部分が、露出され出した。 アフリカで虐殺があれば、それが映像で露骨に流される。 内外に対する暴力装置で君臨していた独裁者も世界の目に晒されてしまう。 日本では、これまでの教育の大失態で、差をつけられてしまった若者の不安の蓄積と鬱憤は、 最近の秋葉原の無差別殺人などから見られるように、マグマになってある日、爆発をするのである。 こういう時代であればあるほど、教養の積み重ねが大事になってくる。 こういう時代は、戦争という破壊で一度、清算をして、ゼロから再び出発することも出来ない。 だから、手段としてテロになるのだろうが、それが更に社会を重苦しくしていくのである。 ところで不安といえばキルケゴールである 一方で、人間の実存感を支える「主体性」を取り上げ、他方では、その実存感にたえずつきまとう「不安」を取り上げた。 「不安」は人間精神の最大の課題であり、彼が生きた1時代以上に、20世紀は「不安の世紀」となった。 ハイデッガーが、キルケゴールの影響を受けて、人間の不安を自分の哲学のベースにした。 現代人はあらゆる事柄に不安を感じ、「不安」は人間の行動原理の内で最も大きな要因になっている。 人間の欲求や行動は、その社会的な営みや文化的な営みも含めて、すべて「不安」に起因し、「不安」に結実していく。 人間は、この世に誕生したことの不安の叫びである産声から始まり、死の不安に包まれていく。 そして、不安の解消のための気晴らしで、人生の多くの時間が費やされる。 情報化、そしてグローバル化で、この不安は解消・縮小されるのではなく、拡大されている。 不安の度合いがより深く浸透しているのが現在時点のようだ。だから不安とは何かをキルケゴールや ハイデッカーなどの書を通じて学ばなければならない。 哲学がより要求されるということだ。
・・・・・・・・・・ 2007年08月06日(月) 2316, 日本の原発依存度って、どうなっている? ファァ(*つ●-*)*.;'Good☆Morning
今回の地震による柏崎刈羽原発の火災などで、殆ど意識してなかった原発に対する依存度に関心が向いた。 そこでインターネットで早速しらべてみた。 それによると・・・ 世界の電力の16%は原子力で、日本国内の原子力依存度は、約3分の1強の37?。 世界全体として原子力の依存度が高まる傾向にある。 現在の日本では、石油危機当時と比べ、エネルギー消費に占める石油依存度が大幅に低下。 日本と同様に石油資源を持たないスウェーデンでは、70年の77%から95年の43%へと着実に石油依存度を削減 、 スウェーデンのエネルギーシステムの中で原子力発電は重要な位置を占めている。 石油危機当時の73年度には77.4%だったエネルギー消費に占める石油依存度は、2001年度に50%になった。 (エネルギー消費と発電の石油依存度は違う)現在の日本には、53基の原発があり、発電量で37%を占め、 これを50?まで戦略上持っていきたいというが政府の意向。 電力10社では原発31%、石炭火力26%、 LNG・LPG火力24%と構成が異なるものの、いずれも原発依存度は30%台と高い。日本の原子力発電所は17カ所、 53基が稼動中。 その数は米国、フランスについで3番目になっている。国内総発電量の37%の日本に対し、 アメリカは20?でしかない。ここまで原発への依存度が高くなると撤去するわけにもいかない。 地球温暖化対策として化石燃料を増やせない現在、日本では原発でカバーせざるを得ないのが実情。 刈羽原発を筆頭として、日本列島はどこでも地震が起こり得る。今度の地震も新たな活断層が動いたというが、 日本で活断層を避けることは難しい。今回のように地震が起こって初めて分かるのが現状である。 資源の乏しい日本では、エネルギーを確保、維持していくことは国の盛衰に関わる。 といって、数年来の原発事故や安全性隠しで原発に対する不信感は非常に強い。 敦賀周辺や東海周辺の原発の地下には活断層がある可能性があり、一つ間違えば、大都市が近くに多くあるため、 数十万、数百万単位で死者が出る可能性がある。この問題は日本にとって今後ますます大きく問われることになる。 byebyeヽ(o・ω・o)ノ゛ ・・・・・・・ 2006年08月06日(日) 1951, ローマから日本が見えるー20 \(^▽^*)おはよう ー読書日記ー 第八章 「パクス・ロマーナ」への道 −3 ーローマ軍団のリストラ
皇帝アウグストゥスは税制を整理・再構成をすることによって、以後のローマ帝国の財政面の基盤を確立した。 彼は限られた財源をもとに、あるゆる知恵を使い「パクス・ロマーナ」を実現していった。 アントニウスとの内戦が終結した時点のローマは、50万人の膨大な兵力を抱えていた。 オクタヴィアヌスとアントニウス双方がそれぞれに軍団を抱えていたから、これだけに達していた。 これをアントニウスは何と三分の一に削減する。 下手に削減すると人気に影を投げかける。彼は私財を投げ出して、退職金をあてることにした。 その軍団を常備軍へと改組する。広大なローマ帝国を限られた兵力で守るために如何したらよいか? 彼が考えついたのは、属州民の活用であった。彼は属州民からの志願者による「補助兵」からなる部隊を編成する。 その数は軍団兵と同数の15万人。軍団兵と属州軍の合計30万人があればローマ帝国の防衛線は守りきることが可能と読んだ。 属州軍の待遇は、さすがに軍団兵と同じにはできない。そこで、属州軍には補助兵としての25年の満期除隊を迎えると、 自動的にローマ市民権が与えられることになった。 ローマ市民権を得れば、属収税は払わなくてよい。この場合の市民権は世襲の権利ですから、子々孫々まで 恩恵にあずかることができる。それを考えると、多少兵役期間が長かろうが、給与が低くとも、 属州民にとって「旨み」があったのだ。
ーローマ防衛体制の構築ー 30万人を長い国境に沿って薄く均等に貼り付けていたのでは、意味が無い。 外敵が侵入してきたとき、そこに兵力を集中してこそ撃退できるというもの。 そこでアウグストゥスは軍団兵を主戦力として活用できるようにして、補助兵はその補助や警戒任務につけることにした。 ・国境に沿って配置された見張り用の要塞では、地元で採用された補助兵が警戒に当たり、 ・敵の襲来が発見されれば、ただちに狼煙を上げるか、馬を飛ばして近くの補助部隊基地に知らせます。 ・補助部隊基地はただちに援軍を派遣すると同時に、軍団基地にその情報をもたさせて、主力である 軍団兵の派遣を要請するというのが手順である。 つまり、敵襲はとりあえず補助兵で何とか食い止めて、本格的撃退は軍団でというわけである。 ここでカギとなるのが、スピードである。そこで役に立ったのが、ローマ人が共和制度の頃から営々と築きあげてきた街道網。 これが古代の高速道路としてカバーしていたおかげで、ローマ騎兵は一日で百キロ近く、歩兵で時速5キロで移動できた。 このローマ防衛体制のアイデアは、現代の国々の軍にもそのまま受け継がれている。 最前線の基地には最小限の兵を配置するだけにとどめ、有事の際には機動部隊が海や空を移動して 援軍に当たるというやりかたが、二千年昔にローマ人が考え出していた。 (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? バイバイ! ・・・・・・・・ 2005年08月06日(土) 1586, 日本経済恐ろしい未来 「日本経済 恐ろしい未来」ー 読書日記
この本を図書館から、何回か借りてきた。そして読み返しながら、日本経済の行方の参考にしている。 全ての問題を先送りにしようとする日本の将来に大きく警鐘をしている。冷戦が終了し米国の特待生であった日本が、 米国などに政治的に利用するだけされても、まだ体質を変えることができない事態。 この本が書かれて3年経っているが、その後に何ら改善されていない。いやマスマス悪化しているのが実情である。 目先、中国のバブルによって、日本からの輸出が増えて一見景気が良さそうだが。 さらに改革の大元の郵政法案が揺らいでいる。 あるHPから、この本の概略をコピーしておきます。 ーーーー (字数の関係上、あとの文章は「引き出し」の読書日記のコーナーに貼り付けてあります。)2008年08月06日 ・・・・・・・・ 2004年08月06日(金) 1221, 運について−2
何回か「運について」(後にコピーしてある)を書いてきたが、再び書いてみる。 運にも二種類ある。 受身の運と、積極的に自分からつかみとる運である。 ・受身の運は、「結果として何時も運がついている運」 性格とか、親の愛情が本人に染み付いているとか、宗教的な環境の中で 育っていて良い結果をもたらす運である。ー性格の明るく良い人。良家の子女(躾がゆきとどいている人)。 ・積極的な運は、「何事にもポイントがある、それを見逃さないよう努力をする。 意志こそ運の原動力、原因」という運である。 ここで取りあげる運は、両者を重ねもつ運である。両方が揃って初めて開ける運である。 私の周辺の女性に、美人で、性格が明るくて、一生懸命に生きているが、そのわりには状況が不幸せの人が何人もいる。 やっと幸せを手に入れたと思ったら、すぐに不幸のどん底に落ちてしまう。 よく見ていると、両親が不仲だったり等、色いろの理由がハッキリみえる。 「ある程度耐える」という家系からくる知識・体質を持ってない。 「ありがとう」を繰り返し言いつづけることは、耐えることの呪文である。 運が上向く以前に、耐えることが出来ない習慣を変える作用がある。 いま一つ、言葉の重要性を知らない。「自分は、ついている(運がある)」と、毎日こころの底から思っていれば、 そして、「ついている」と現に言葉に出していれば、ツキが回ってくるに。 「俺はついてない」「どうしようもない」「世の中が悪い」「あいつのせいで、こうなった。あの畜生め」と、 あけてもさめても唱えていれば、不運しかこないのは当然である。もし幸運がきても、それが見えなくなってしまっている。 世の中の八割そうだから、それで良いのかもしれないが。チョッとしたことなのに、せっかくの人生、あまりにも勿体ない。 運は因縁と似ている。因は直接の原因、縁は間接原因をいう。これが重なって結果がきまってくる。 多くの因縁の中で、良いものを選択するのも本人である。 やはり良い本、良い人、良い芸術、大自然にシャワーのように浴びるしかないのか。 ーーーー 265, 運について -1 2001年12月10日(月) (字数の関係でカット09年08月06日) ・・・・・・・・ 2003年08月06日(水) 854, 閑話休題
全くテーマが浮かばず如何してよいか解らない日がある。まあほとんど毎日だが。そこが面白い面もあるが。 それでも強引に書いた文章ほど後で読むとよいから不思議なものだ。 そうこう考えていたら、あるホームページに 「閑話休題」というテーマがあった。これから無理にテーマを決めないで、時々「閑話休題」で書くことにした。 書いた後でテーマを書き換えればよいし、そのまま閑話休題としてもよい。 野口悠起雄の「超文章法」の中で、テーマの探し方に「窓から飛び降りそうなくらい大変なものである、 考え尽くしてひねり出すしかない」と書いてあったが、それを読んで学者でもそうかとほっとした。 それと「文章上達は量をこなして、校正と推敲を重ねるしかない」と本音で書いていた。 結局は努力努力努力しかない。一見なにげなく書いてある文章に、それだけのエネルギーと時間が入っている。 逆にいえば、プロほど想像を絶するほどの絶対量と、その校正と推敲を重ねているのだ。 これはすべての分野にいえることで、プロの世界はそうそう甘くはない。気楽な「閑話休題」を時たま挟み込むのも 本音がでて面白いだろう。いまもテーマを意識しないためか次々とキーが動いてくる。 話は変わるが、昨日隣家で建前があった。100坪の敷地に二階建てで延べ50坪位の結構大きい家だ。 夕方帰宅したら、屋根の下地も含めて建前が終わっていた。家内が言うには「20~30人が蟻のように取り付いていた」 とか。夕方には子供たちを集めて、上棟の祝いで何かをばら撒いていたという。 大きいクレーン車が次々と加工された材木を吊り上げ、鳶が組み立てていく。 いま流行の何とか工法という奴で遠くの工場で加工して持ってくるのだろう。 新しい家は、その人たちにとって仮の天国の世界の創造である。本人達はいまが一番嬉しい時期だ。 いままでは隣家に広い庭の空間があったが、これからは光が少なくなる。 仕方がないが。
・・・・・・・・・ 2002年08月06日(火) 479, 楽観と意志
「楽観は意志、悲観は感情」 この言葉と出会って、「楽観の意味」が始めて理解できたようなきがした。 そういえば若い時ー理想に燃えていた時、その背後には悲観という不安が大きな口を開けて足元にあった。 若い時期の楽観はあくまでも虚構のような夢の世界であった。その正体が意志であった事がこの言葉を知るまで 解ってなかった。それだけ強烈な言葉であった。悲観はただ流されている喜怒哀楽でしかない。 そういう悲観に占められていた時期の自分は、ただ感情的世界でしかなかった。 鬱の自分はそう感情の世界にドップリつかっている意志喪失の自己の世界である。 常に鬱の人は教養のない感情に支配されている人が多い。また非行動的の人が多い。行動の、行は仏教語で判断という。 動はあくまで動物の動きでしかない。行動は意志が入った動きだ。行動的ということは楽観が勝っている状態と云える。 私の周辺の80?の人は悲観的な感情に支配されている人だ。また非行動的の人が多い。 行動的かつ楽観的の人はその背後に強烈な意志が隠されている。 楽しかった過去を思い出し楽しみ、将来の楽しみの計画をたてている 今。それに過去の計画を実践している今。 それが楽観であり、意志である。
・・・・・・・・・・ 2001年08月06日(月) [100] あら!たのし
難しいことをやさしく! やさしいことを深く! 深いことを愉快に! (井上やすし) 井上やすしの本を読んでいて納得して、彼のように紙に書いて机の電気スタンドに張ってある。 彼の言葉じゃなくて誰かの言葉を彼なりに変えた言葉だが。 コツとか要領を旨くついている。 天才はそれぞれこの方法を子供の時より造りあげていた。考えている対象の文章化とか、ゲーム化とか絵画化とかして。 楽しみまで高めるのはそう簡単ではないが、でもやってやれないことはない。 「四S主義 = シンプリフィケーション スタンダーディゼーション スペシャリゼーション セグメンテーション 」というチェーン理論のベースになる教えも、これに近い。
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