堀井On-Line



2966,ミューズが降りる

2009年05月19日(火)

先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。
年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。
その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。
名優の演技には、度々あるのだろう。 森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。
談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
 ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。
個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神の
あいだに生まれた、9人の姉妹とされている。ー
 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 
霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。
スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 
頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、魂が入るということだ。 
芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上)
と、同じようなことを言っているのだろう。
 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、誰にもあることでしかないか?
言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は深いということ。
 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)

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602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)
        
 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー

【ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。
通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、
テレビやマンガのヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。
こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、
「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】
とある。 子供の頃に、多くのごっこ遊びをした記憶がある。
最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。
他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。
参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、
架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。
様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。
考えてみれば、世の中の多くは「ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。
それに価値があると国民が思い込んでいるから価値があるのであって、冷静に考えてみたら、それって印刷された紙切れ。
子供の頃に紙に書いた紙切れで御店屋ごっこをしたのと何が変わるのだろうか。
お互いに思い込みをして演技をしている「ごっこ遊び」に過ぎないのだ。
その最も滑稽なのが、青少年期の恋愛である。 お互いに理想的な男女を演じる姿も微笑ましいが。
そして、その段差があまりに大きいため、幻滅の時期の白けも大きくなる。成田離婚が、その典型である。
「振りをする」というのも疲れるものだろうが。 世の中、それぞれの役割がある。
その役割をこなすには、まずは「振り」から始めなくてはならない。ぶりっ子という言葉があるが、
これは「振りっこ」のミエミエのことである。俳優も「ごっこ遊び」に徹することから始まり、
最後も、俳優という仕事で配役を「ごっこ遊び」として楽しむところにコツを見つけるのだろう。

まあ、人生ごっこも面白いと言えるかどうか?
                        ヾ(??????)ノ
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2007年05月19日(土)
2237, お金の正体 ?1
      「お金の正体」 ー日下公人著
                         (((。・-・)从(・-・。)・゜
「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。
特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。
しかし、どれを読んでも面白いのは、金が欲の集約でもあるからである。
この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、実際読んでみると、面白い本である。
「お金の正体」はつきつめると「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。
幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。
私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。
以前にも何度か書いてきたことたが、父が死を覚悟した時にジッと私の顔をみて、数千万円の数字を紙に書いて
「この数字と銀行預金の同じ数字と何処が違うのだ?」と深刻な顔をして私に問いかけた。
「事業という楽しみの後に残ったカスがお金である!」が父の口ぐせだったが、
それでは、そのカスも紙に書いた数字でしかないことに気づいたのだ。
「実際に使えないなら現状なら、無いに等しい」といいう言葉を加えた。
しかし両親は、そのカスを更に楽しんで使っていた。それ以上を求めること自体は、
少し求めすぎのように思えたが、それでも逝く直前に割り切れない何かが心が残った。
その時、何かを伝授してもらった。「仕事を遊びまで高めること、そして、そのカスとしてのお金を、
仕事とは別の趣味を見つけ楽しむこと。それも楽しんだら、大らかな気持ちで余韻を楽しむこと」である。
金を哲学的に考察すると、交換手段としてのルール(価値尺度)でしかない。
それでは目的はというと「魂の充足と自由」である。「金」を通して(物や事で)魂の充足をしているうちに、
目的と手段が混同し、その混同が生き方を誤らせてしまっているのが現代の傾向である。
金という手段で「魂の充足と自由」をやり取りしているうちに、金が魂と同類に思えてしまったのである。
だから価値尺度の通帳を見てニヤニヤしているうちに死に直面してしまい、
「金」が果して何だったのだろうかと錯乱してしまうのである。 ところで私の父親の迷いは何だったのだろうか? 
その謎解きをしてみよう! 事業を楽しんで当時として、地方では財をなした。
そして、以前の家業の骨董屋の因縁で「骨董」の収集と、「国内旅行」を楽しんだ。
更に豪邸をつくった、そしてその8年後のある日突然死を宣告された。
目の前には、当時の数千万の預金と、幾つかの土地屋敷がある。
「それでも残ったこれは(資産)自分にとって何だろうか?」という疑問である。
死を直面して、混乱をしたのである。父は事業も趣味も充分に楽しんだ。そう、魂の充足はしたのである。
ところが、何かが欠けていたのである。それは哲学的思考である。それも、難しい哲学ではない。それで充分幸せであった!
という心の安定を裏づける確信ができなかったのである。
「それでは完全燃焼などあり得るというのか?」という哲学的な答いが出来なかったのである。
父の姿をみていて「哲学の基礎だけは教養として身につけておかなければならない」
ことを教えてもらったのである。

ー以前、書いた一部を紹介してみるー
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   お金について
 誤解を恐れずに、いや覚悟の上に書いてみる。 これほど重要なモノについて誰も直視しない。
触れたがらないのはその本質があまりにも“現金”だからである!。ズバリお金は“自由の塊”である。
世界の大部分のモノが引換に手に入る!人の心さえも。 それほど強力な魔物である。
それに支配された時、その人の奴隷使いにも変身してしまう。
反対に上手に使えば従順な召使いになる。 父がよくいっていた
“お金がないのは首のないのと同じ位つらい、その苦労はこの世で一番の苦労だ!。”
“お金で奇麗事を言う奴が一番お金に汚い人だ!”“生き金は使え、死に金は使うな!”
“お金の楽しみの(うまくいった仕事の)結果のもの。”
“それは使わなくては紙に書いた絵でしかない。”
“金・金・金!!とどのつまるところ、それだ、それ位重要である。
お金に窮してはじめてそれと気ずく。それを誰も直視しようとしない。
世の中その為に首を吊り、人を殺しもする、盗みもする。
それを認めた上で、それにとらわれるな!とらわれない為にはお金を貯めろ!”。
父の考え方は決して間違っていないと思うし一つの見方だ。でもお金に対して奇麗な人であった!
                    ヾ(´Д`、)マタネ

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2006年05月19日(金)
1872, グーグル Google -8   才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)                
                ー 読書日記
(字数の関係でカット2,008年5月19日                              
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2005年05月19日
(木) 1507, 猛女怪女列伝
  ーアナタハンの女王 ー

終戦直後の日本で、このようなドラマがあったと「新潮45」という月刊誌のー猛女怪女列伝ーで初めて知った。
 太平洋戦争での敗戦濃厚になった、昭和19年6月から6年間、敗戦を知らない南海の孤島「アナタハン」で取り残された
「男31人、女1人の生活」で、一匹の『女王蜂』比嘉和子をめぐる、壮絶な性と生のもう一つの戦争があった。
その殺戮の中で生き残ったのは20人、残りの12人は、『女王』を争って殺されたり、
原因不明な死を遂げたと生還した兵隊達によって証言されたという。
 (字数の関係でカット2,009年5月19日 H0903

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2004年05月19日(水)
1142, 自由について ?2

「自由ほど不自由」ということを感じたことを誰もが経験していると思うが?
これは「自由な自己決定」を迫られる「不自由」ということにある。
自由とは主体的であるということだが、その主体ということが怪しいのだ。
主体的と思いこんでいるだけでしかないことに気がついてないのだ。
その主体も外的要素によって規制されているから矛盾が出てくる。
目の前の「自由」が、ちゃんと何かによって規制されていることを嫌というほど、
思い知らされていることを。人生経験の中で主体と思ってきたことも、
所詮は限定された世界の泳がされてきた小さな池の魚でしかなかったことを。
主体を「気短」という説がある。なるほど、面白いドキッとする内容である。
主体的ということは、気短で、その結果として目先の判断で動いているだけという。
なるほど、そうかもしれないところが、身に沁みる。自由から、何で気短に行きつくのが不思議であるが。
現在の社会の様々な問題の根底の部分に、「自立した自己」や「自由な主体」などの、
幻想が潜んでいるのではないだろうか。「ゆとり教育」とかいうものが、
幻想でしかないことを国は気がつき始めた。国民レベルは、それが幻想ということを初めから知っていたが。
自由は戦いとるもの、積極的な自己目的を追求する姿勢の中にこそある。
「不自由論」という本がある。曖昧な自由論を批判している内容である。
風刺漫画を思い出した。「夫婦が、お互いの首についた紐を握りしめ溜息をついている絵」である。
何とも不自由そうであった。
 ーーーーーー
【-自由について-】
・あまり安価で手に入れたものは軽く扱われる。
 自由のように神々しいものが高価でなかったら、実におかしいではないか。 ーペイン
・人間の自由を奪ったものは、暴君でも悪法でもなく、社会の習慣である。ーJ・S・ミル
・痩せた自由は肥えた奴隷にまさる。 ーイギリスのことわざ
・自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間のうちにあるのであって、
 自由であろうと欲するものが自由なのである。 ーエルンスト
・自分自身を支配できないものは自由ではない。 ーマッティアス=クラウディス
・自由に気がついていないときこそ、人間は一番自由なのだ。 ーローレンス
・自由は責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる。 ーバーナード・ショウ
・人間が自由であり得るためには、神があってはならない。  ーシェリング
・自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。 ーサルトル
・真に重大な自由はただ一つです。それは経済的な自由なのです。  ーモーム
・自由は新たな宗教であり、われらの時代の宗教である。    ーハイネ
・ビロードのクッションの上に大勢で座らされるよりも、
 カボチャの上に座って、カボチャを自分で占領した方がいい。 ーヘンリー・ダビット・ソロー
・自由を愛することは他人を愛することだ。力を愛することは自分を愛することだ。 ーハズリット
・おお自由よ!汝の名においていかに多くの犯罪がなされたことか。  ーマダム・ジャンヌ・ローラン

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2003年05月19日(月)
775、「ドラッカーとの対話」ー読書日記 ー1  著者/訳者名:小林薫/著

【本の内容】 ピーター・F.ドラッカーとの40年にも及ぶ交流に基づき、
 その思想のエッセンスを読みやすい形で凝縮。
【目次】
第1部 ドラッカーの魅力と先見力
第2部 ドラッカーに親しく聴く
第3部 21世紀を見透すドラッカーの眼
第4部 ドラッカーのキーワード20
第5部 ドラッカーの日本を見る眼・世界を見る眼
第6部 ドラッカー式英語の面白さ
第7部 ドラッカーの人間像
 ー私の感想文ー
ドラッガーといっても、そう難しい難しいことを言っているわけではない。
学生時代にドラッガーの「現代の経営」訳者の野田一男教授の講義を受けて、
当時「経営者の条件」「創造する経営者」「断絶の時代」「現代の経営」など数冊、読んだ。
現在も多くの本をドラッガーは書き続けている。
彼の要約書が多くでているので、私なりに纏めたいと思っていたら、
この書にであった。小林薫という名も懐かしい。この書の印象的なところを書いてみる。
・現在が200~300年に一度の大転換期にあり、100年スパンの
 期間にわたっているという。そして現在はその40~50年目あたりという。
・彼の名言は「強みの上におのれを築け」である。これは個人にしても、組織にしても、国としてもそういえる。
 何ごとも強みがあると同時に弱点もあるが、弱点に対しては目をつぶり強みを活かすように努めるべきである。
・イノベーションも彼の大きなテーマである。変化をチャンスとして捉えて、イノベーションをするのが経営だ。
・彼は常に価値、解りやすさ、人格、知識、ビジョン、責任、自己管理、社会的責任、自己実現、尊厳を述べている。
・知識こそ最大の経営資源であり、中心的資源であるが、彼の変わらざる主張である。
 このような急激なIT化による情報化になればなるほど、彼の50年をかけて主張してきたことが
 現代に受け入れられる。話は変わるが、彼の「経営者の条件」がなかなか面白い。
 これは最後にインターネットで調べたー書評と目次ーをコピーしておくが、焦点を成果にあわせよ、
 自分の時間管理からまず始めよ、貢献について、自己ー自社の強みの発見に努めよ、
 重要事項から始める癖をつけよ、と経営者や上に立つもののあり方が書いてある。
 この本かどうかは忘れたが、上司たるものダーテーであってはならない、潔癖であるべし
 というのが彼の変わらぬ主張である。

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 2002年05月19日(日)
411,自分の人生のつくり方 -いろいろな悩みー3

それでは自分の人生のつくり方とは?どうしたらよいか。ライフワークをきっちりつかまえて、その都度脱皮すればよい。
「脱皮できない蛇は死ぬ」というが、そういう人間で満ちている。ライフワークとは一生涯を通じてやり遂げる趣味と仕事。
そして一生涯を通して脱皮の時期がある。7年説、8年と10年という説がある。
ライフサイクルというが、
・7年ー7歳、14、21,28、35、42、・・と節目がある。
・8年ー16、24、32、40歳・・
・10年ー20,30,40,50年歳と・・
 またこういう説がある
1、児童期・青年期  0〜22歳
2、成人前期     17〜45歳
3、成人中期ー中年期  40〜65歳
4、成人後期ー老年期   60歳以降

重なっているところは移行期、これが一番わかりやすい。これと7年説が私の一番納得できる。
その節目ごと、脱皮していく事をいう。「節目を叩け!」という諺があるが。
自己実現という言葉がある。たしかユングの言葉であった。自分のなりたいこと、
したいことを実現することをいう。それも一生涯を通してだが。それを自分の人生という事にならないか。
子狐がここにきて、にわかにそれをつくろうとしている。やらないよりはいいが。
10年?20年スパンで何をすべきか判断して、それぞれ節目を作り、やり通すのがライフワークである。
それをやり通すことが、結果として自分の人生という。「濡れ落ち葉」はそれを全くやってこなかった人、
そして、これからもそれを見つけられない、その気力のない人をいうのではないか。
中年クライシスという中年の危機といわれてのが、これである。中学の先生もそれだった。
今度中年クライシスについて書いてみよう。 周囲はその人たちで満ちている。
一ヶ月前、150m先の58歳のご主人が自殺したという。 家を新築したばかりなのに!
 それにしてもそういうことに無知すぎる!
 
・・・・・・・・・・
2001年05月19日(土)
どうも不調

昨日1日このがサイトがひらけなかった。きのう23時に帰ってきて、
文章を書いたが記載出来なかった。これから散歩に行く。

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