2009年04月29日(水)
佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 ー反対する理由はー 「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に一番向かないのではないか。 多数の人気に自分を預けていて、自分の意見がありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。 『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気でもやるということではなく、 人気に寄りかかっている。 橋下知事も反発を受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」 ー知事に必要な条件とは何かー 「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が小泉純一郎氏だ。 全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント知事も同じ人気者路線に乗っかっている。 喝采(かっさい)を浴びた小泉氏のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』という概念が忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は人気を利用した発言力が役立ってはいないか ーPR係として雇えばいいだけー 「知事でなく、PR係として雇えばいい。タレントそのものが浮草の人気商売だから、それが染みつき人気を利用して国と 渡り合おうとする。だが、青写真がない。選ぶ方も人気だけでそれを要求していない。地に足を着けて選んでほしい」 ー有権者側にも責任がある 「タレント知事はその存在がすべてで、何を公約したかというのは問題にされていない。それはまずい状況だ。 格好が良くて無内容の人と、格好悪くて内容がある人とを比較した場合、後者を選ばないと。 政治がワイドショー化しているのだ。 タレントの生きている世界と全く対照的なのが政治の世界。 行政や政治が堕落していくあしき兆候だと思う。隣人が選挙に行くから自分も行くような人には選挙権を与えなくてもいい」 ー政党側も人気を利用していないか 「人気ほど不確かなものはない。風によって登場した人は風によって消えていく。 (1期4年と短命だった)青島幸男元都知事も人気がないことはやる気がなかった。 (平成18年に初当選した)滋賀県の嘉田(かだ)由紀子知事は、自公民推薦の現職と共産推薦の新人を相手に勝った。 風を起こしたのだ。これに対して、人気に乗っかった人は、風の向きが変わると、言ったことと全く違うことをする怖さがある。 そのことをタレント知事を選出した県(府)民は分かっているのだろうか。県(府)民も風に乗って浮かれているのではないか。 〜 選挙で選ばれて県知事になるのだから、人気商売であることも確かである。しかし、お笑いや軽薄としか思えない タレントを選んでしまう県民の民度は、その程度と、切り捨てるしかないのか? 落ち目の国の、末期現象でしかないことは間違いなさそうだ。
・・・・・・・・・ 2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点 2008年04月29日(火)
ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉があった。 その意味を噛締めてみると、成程と合点がゆく良い言葉である。 学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、 解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。 この本を読みながら気がついたことがある。 それは事例研究から学んだことは、 一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練をさせられたことである。 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる 一人称は、自分、 二人称は、あなた、家族など身近な人、 三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に見る人。他人事とみる視点。 三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」 そこで、三人称の人も二人称に歩み寄り、同時に二人称に埋没しない「2.5人称の視点」を持つべきだと。 1人称、2人称の視点だけでは感情に走って冷静な判断が下せなくなる。 といって他人事としての3人称の視点であれば、冷たく突き放す見方が優先する。 求められるのは、1人称と2人称を考慮に入れつつ3人称的な冷静な判断を下せる、2.5人称の視点が、 柳田邦男さんの「2.5人の視点」である。冷静・客観的な、それでいて人間性豊かなかかわり合いを 持てる人間こそ2・5人称の視点を持った人、ということだ。 二人称に限りなく近づくが、どっぷりと二人称になると、冷静な判断かつ正しい処置ができなくなる。 そうすると「1.5人称の視点」「0・5人称の視点」「4人称、5人・・・称の視点」と考えてみた。 1・5人称の視点は、夫婦、親子、兄弟間のこととか・・0・5人称の視点は、自分の中の神の目の視点とか、 良心の視点とかである。 ーそれにしても、0.5、1・5、2・5とは面白い切口である。 思いやる心、温かい心、慈悲、感謝、感激、愛する心などなどということか。
・・・・・・・・・・ 2007年04月29日(日) 2217, ネットカフェ難民 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ 今年になってから、インターネット難民という言葉を見かけるようになった。 駅前で宿泊業をしているので、こういう現象に敏感になる。 当ホテルにもビジネスホテル難民?が数年前までぺアで1?2組、入れ替わり立ち代り宿泊をしていた。 12?の部屋に3?10年の長期滞在になるが、身なりはシンプルで、キチットしている。 水商売で色いろの事情があるようだ。もちろん警察にはマークされるが、犯罪にはつながってない。 今年になってから、急にネットカフェ難民という言葉が目立ってきた。 家内の話によると「最近は24時間営業のファースト・フード店やファミレスに若者難民が屯して、 ドリンク一杯で一晩うつ伏せで寝る現象が出てきた」とTVの番組で扱っていたという。 新潟駅前のビルの1Fにあるロイヤルホストに夜明かしをする若者がいる!と聞いたことがあったが・・。
*「ネットカフェ」をインターネット辞書のウキィペディアで検索したら・・ ー概説ー ナイトパックが利用可能なインターネットカフェ。コインロッカーの一例これまで過ごしていた自宅(実家やアパート)や 寮を諸般の事情(家賃の滞納や家庭の事情など)で退去して、24時間営業のインターネットカフェや 漫画喫茶で夜を明かし、日雇い派遣労働などで生活を維持している若年者を指す。 ホームレスに代わる用語として2007年頃より用いられている。 一般的な高齢化による求職難、働く意思・意欲が無くホームレスになった人々とは対照的に、 ネットカフェ難民は働く意思を持ち、日雇い派遣労働に従事するのでホームレスの用語を あえて使用せず、マスメディア側で2007年頃から便宜的に作られ使用されている造語である。 ー雇用環境の変化ー 身の回りの荷物の収納を8時間100円で使用できるコインロッカー、シャワー施設を完備し、 低額料金のナイトパックで利用できる個室席を完備したネットカフェなどの増加を要因と した社会情勢の変化でネットカフェ難民になることへの敷居が低くなったことも一因として挙げられる。 ブル崩壊後のフリーターの増加、多くの企業ではコスト削減・価格競争力を維持するために 派遣労働者の比重を高めてデフレ経済の中での生き残り策を模索し、それに比例して 正社員雇用の採用が低下するなど幾つかの要因が重なり合った日本経済の雇用実態の姿を映し出している。 ーー 以上であるが、ネットカフェ難民とは! 日本も変わったものである。 セカンドハウスと思えば、安く便利だろう。団塊の世代が定年を向かえるが、 粗大ゴミとして扱われる彼らの「昼間の避難所」として非常に良い空間になる。 こちらも切実だろう。 (TωT)トホホ! (○´ω`○)ノ**SeeYou**(○´ω`○)ノ ・・・・・・・・ 2006年04月29日(土) 1852, ローマから日本が見えるー8 才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
二つのネットワークのうち、まずローマ連合と、その成り立ちとは? ーー ーローマ連合とは、その成り立ちー *ローマ連合は大きく分けて、 5つの要素で構成されます。 (以下、字数の関係でカット2,008年4月29日) ーー 以上であるが、これは大手企業グループの資本金の比率などの構成に酷似している。 学者などはローマ連合を類推して、その合理性を導き出しているのだろう。 現在の政治経済に、そのまま当てはまることが多くある。 ー つづく ヾ(^ω^*) バイバイ!
・・・・・・・・ 2005年04月29日(金) 1487, 郵政民営化と自民旧守派
郵政民営化は、至極当然の流れである。しかし、反対派との猿芝居で殆ど骨抜きになったが、 国鉄の民営化より先にしなければならないことであった。 この旧守派の連中のトップで反対しているのが、トナミ運輸のオーナーで、前の橋本派(恥元派)の 現在の実質トップの綿貫という男。自社の利益を守るための反対であるのは自明である。 郵政が民営化されると、一番困るのが運輸会社である。もう政治とか何とかいっている以前の話である。 こんなのが、政界の中心にいるというからエログロである。 この男の反対理由に「利益だけではなく、 公共の利益を考えなくてはならない」とか言っておられる。自社の利益を守るためであるのは誰の目にも明らかである。 これが政治家だというからお笑いである。それも元衆議院議長というから、その質の低下もいいところである。 政治的犯罪行為が露出しているのが、この連中には解らないのだ。 あの亀井静とかいう政治家も、 政界にまだ存在しているから恐ろしい。郵政族と称する票?食(乞?が怒るか?)も哀れな存在でしかない。 言葉が汚いかも知れないが、この連中のことを書くかぎり言葉の方が汚れてしまう。 彼等の存在と名前は、汚点として政治歴史として間違いなく残る。
自民の旧守派どもが郵便預金を露悪的公共事業に注ぎこんできた主犯。 その残党どもが、その元金を断ち切られるのを恐れて反対をしているに過ぎない。 恥を知れ!というほどのレベルでもないが。書いていても情けないというより、 その醜悪の姿に日本の将来に絶望を感じる。こういうのが、まだ存在しているのだから。 国鉄を振り返ってみれば、郵政の民営化は当たり前のことである。 郵便局の存在は国鉄の数倍も国にとって効率の悪い存在でしかない。 何が公共的存在というのか。国鉄の末期のとき、共産党と社会党の連中が同じことを言っていた。 コンビニで郵便局の存在意味は、ほぼ終わってしまったのだ。 特に、郵便局の連中の言い訳に羞恥心があからさまに見えていた。あまりの非合理性を自分で知っているからだ。 とにかく自民党を潰さなくては! 小泉も含めてだが。 民主党の党首が、あの程度である。 貧すれば鈍するが今の日本の政治である。
・・・・・・・・ 2004年04月29日(木) 1122, 「ライフ・レッスン」ー8 ー怒りのレッスン
・怒りは文字通り腹部でつきあわなくてはならない。そのこつを身につけるには、眼をとじて、 片手を胃のあたりに当てるとよい。脳でなくからだを使うというかんたんな動作が、そのとき感じている ことを知るのに役立つ。自分の感情とつきあう習慣は、現代社会ではほとんど知られていない。 現代人はからだで感じるということを忘れている。わたしたちは理性と感情を分けようとする。 理性に支配させることに慣れすぎているで、感情やからだのことは忘れてしまう。 ・怒りは、うけた傷に自分がなんの対処もしていないことを知らせるシグナルである。 その傷は現在進行形の苦痛だが、怒りはだらだらと長びく苦痛になる。 傷をためこみ、それに注意を向けないでおくと、怒りは成長をする。 わたしたちは怒りを多くためこみ、やがて傷の分類ができなくなって、最後には自分に怒りがあることに さえ気づつかなくなってしまう。怒りの感情とともに生きる事になれてしまい、それが自己の一部と思いはじめる。 その怒りがアイデンティテーの一部になる。 だから、わたしたちは、自己のアイデンティテーと古い感情とを分ける作業を分けなくてはならない。 ーーーー ー感想ー 怒りっぽい性格のためか、このレッスンを過去の人生で多くしてきた。 怒るには怒るだけの理由がある。また、その怒りによって適切な判断ができたことが多かった。 怒りは、その感情の高まりによって自分の世界を他者との間に一瞬ラインとして見ることができる。 怒りの感情を抑圧することで対処しようとする人が多い。その必要はないのだ、といって怒ってばかり いるのは問題だが。はなしは変わるが、去年の同日の随想日記の内容が偶然の一致で「怒る技術」であった。 面白いものである。怒るということからのレッスンが全く足りないのか? 方向違いを知らしめようとしているのか? じっくり考えてみる必要がある、特に私の場合は。 怒りの背後にあるものの一つに「恐れがある」という。 なるほどそうかも知れない。 怒ってみて初めて、その正体がわかることもある。 怒りを溜め込むと憎しみになる。 憎しみのヘドロを溜め込むなら怒って、そのつど吐き出すことも必要なこともある。 憎しみのヘドロでドロドロの人が、あまりに多い。そのヘドロを他人に投げつけるから始末が悪い。 -------- 《--怒りについて--》 (以下、字数の関係でカット2,009年4月29日)
・・・・・・ 2003年04月29日(火) 755, 「怒る技術」ー読書日記 タイトルが面白そうなので買ったが期待したほどの内容ではなかった。 私が怒りっぽい人間でこの技術を経験上身につけてきた事もある。 著者と同じ年齢で闘争的であることもあってか合点することが多かった。 私の場合は子供の頃から兄姉やクラス内の喧嘩で怒りの山であった。 また学生時代の寮生活で、怒りのテクニックを身につけざるを得なかった。 創業でも色いろな場面に遭遇したことが多かったこともある。怒りの山を一づつ乗り越えてきたというのが実感だ。 その意味では、この本は哲学者の言葉の遊び的な甘さもあった。しかし彼がウイーンで、怒らなくては生きて いけなかったというのはよく理解できる。ヨーロッパ人は実によく怒るそうだ。喜怒哀楽を冷静に使い分けないと、 事業など出来ない。著者も彼らの「怒る力」には及ばないと書いてあった。 彼らはわれわれ大和民族と怒りの表出の仕方が違うという。 彼らの特徴は ・すぐにその場で怒りを表出する ・以前の怒りを根に持つことが少ないこと ・怒りは激しく、しかしただちに収まること ・怒りの表出が言葉中心であること ・個人的に怒ること ・演技的怒りであること 以上であるが、全く私が身につけた怒りかたと同じである。
寮生活をしていて、大学を卒業しながら、社会に溶け込めず寮に入り浸っている先輩の群れがいた。 大人しくしていたら部屋のものを持ち去ってしまうこともあった。 直接攻撃もできないし、ただ見ているしかないこともあった。 彼らの姿から、脱皮していくには過去の場所には二度と行ってはならない、ことを学んだ。 怒りは貯めておくと、膿になり化膿してくる。自分でコントロールしなくてはならない。 この本の中に「怒れない人達」というのが書いてあった。何か気の毒のような気がする。 最近こんなものかと怒りが少なくなってきたが、それでも山のようにある。 この著者は怒りの代用として対象への軽蔑がある。そのことに気がついてない。 自分が生きているだけで精一杯でしかないのか、それとも哲学者のゆえんか。 「怒りの代用としての軽蔑と、生きていくだけで精一杯」は自分のことだからよく解る。 私の場合と違うのは、この人の人生は全く楽しくないということだ。 本人もそう書いている。「笑いの技術」でも書けばよいのに!要らぬお世話と怒られるか!
昨夜この下書きを書いて寝た為か今朝面白い夢をみた。ペガサスクラブというチェーン店理論のコンサルタントの 一種気違いに近い怒り方をする渥美俊一先生が、セミナーで招いていた先生ー経済評論家のリチャード・クーを、 私語をしていたといって殴りつけたのだ。なんでリチャー・クーなのだろか解らないが?そして二人は喧嘩をしながら、 会場外に出て行った。恐らく警察をクーが呼んだのではと思いながら・・で夢が覚めた。 こんなものだが、それにしても脳は面白い! 話は変わってしまったが! ・・・・・ 「怒る技術」 PHP研究所 中島 義道【著】 ー内容ー たとえ間違っていようと、あなたは怒るべきである。 20年にわたる壮絶な対人闘争から掴んだ「怒りの哲学」。
・・・・・・・・・ 2002年04月29日(月) 391, 休日の風景
休日の一日の典型の日が昨日であった。 時系列に書くと
・5時に目が覚める、30分位 うとうと ・5時半、 起床ーすぐ仏壇の前でおまいり 「天国のお父さん、お母さん、運一さん、進さん、正子さん、(兄・姉) ご先祖様、そしてあの世のすべての人が安らかに過ごされますように! そしてこの世のすべての人が良くありますように。特に大変な人がよくありますように。 ご両親様ありがとうございました。仏様ご苦労様です。今日一日最大限いきます。そして明るく・・」 ・5時35分?6時15分 パソコン・・・・ ・6時15分?8時15分 散歩 ・8時15?11時 食事・新聞TV・読書 ・11時 風呂 ・12時 食事 パソコン ・13時 愛の貧乏大作戦ーTV ・14時 図書館・選挙 ・15時 競馬・天皇賞ーTV ・16時?17時45分 WOWWOW ー映画ーリプレイスメント これが大当たりー面白い! ・17時45分? 笑点 ・18時 近くのー100m先のサイゼリヤで食事 (500mlの赤ワイン、牛肉の角煮、ムール貝、アンチョビのピサ、ドリア) 以上で2人で税込みで2100円。スーパーより安い! ウオーキング ・19時 サンマのからくりTV ・20時 巨人戦 ・21時 居眠りーTVの前で ビデオ少し ・10時半 就眠 大体これで休みが過ぎる。80パーセントがこんなもの。あとはSC と映画 とあたりが加わる。
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