2005年11月13日(日)
−読書日記 (~O~)ふぁ・・ ー技術的ルールとして、
1、強調 ・中心イメージを置く ・絵を使う ・中心イメージには3つ以上の色をつかう ・イメージと言葉を立体的にする ・感覚にうったえる −視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など ・字、線、イメージの大きさに変化をつける ・スペースを整理して使う ・適当な余白を残す
(ρ_-) 2、連想 ・色を使う ・矢印→をつかう 枝の中で、あるいは枝を越えて連結させる時など ・記号を使う (-_ゞ
3、わかりやすく ( ̄□ ̄)!! ・一本の線にキーワードを一つだけにする ・文字はきれいに、はっきりと書く ・キーワードを線上に描く 言葉を肉とすると、線は「骨」である。 線はマインドマップの構造をつくり、 見た目を整えて、わかりやすく、記憶しやすいものとなる。 「線」を加えることで、連想がさらに広がることになる。
・単語と線を同じ長さにする 単語同士を近くに配置するのは、連想を促すルールである。 ・線は、中心イメージから伸びる大きな枝や他の枝から伸ばす マインドマップ上の線をつなげることは、 脳の中の思考を結びつけることになる。 線は、矢印、曲線、輪、円、楕円、△などに変形してもよい。 ・中央ラインを太くする ♪〜(=^ε^= ) 中央ラインが強調されると、脳の中心にあるアイデアが重要だという 信号をすぐに受け取る。この作業を続けていくうちに、実は、 周辺のアイデアの方が重要だったと気づくことがあったとき、 そのアイデアを太くかこむだけでよい。有機的な線が、視覚的面白さを生む。 ・イメージはできるだけ解りやすく描く ・紙は自分の前に水平に置く 横長のマインドマップの方が、縦長よりも、自由と空間が多く、みやすい。 ・文字はできるだけ、水平に書く (~O~)ふぁ・・ 4、自分のスタイルを発展させる ・以前よりプラス一を心がける ーーー 以上であるが、 何回か実行しては、いつも元に戻ってしまうのは 本や新聞・雑誌がほぼ過去のパターンで、 知らないうちに引き戻されてしまうからだ。 それより本当にわかっていないからか? (◎-◎;)!! さよなら ヾ(^-^)ゞ ーーーーーーー トニー・ブザン (著), バリー・ブザン (著) 神田 昌典 (翻訳), ーー 目次
イントロダクション 本書の使い方
第1部 脳は驚異のメカニズム 1章 あなたの脳の無限の力 2章 天才たちのノート 3章 なぜあなたの脳は無限の力を発揮できないのか 4章 脳の力を解放する放射思考 5章 マインドマップで思考は進化する
第2部 脳の力を全開にする準備 6章 放射思考で連想を広げる練習 7章 イメージ力を高めるエクササイズ 8章 連想力を伸ばすエクササイズ 9章 マインドマップの基礎
第3部 マインドマップの作り方 10章 マインドマップのルール 11章 個性を磨け
第4部 マインドマップ活用法 12章 2つから1つを選ぶ意思決定法 13章 多くの選択肢から意思決定する方法 14章 マインドマップ・ノート術 15章 マインドマップ記憶術 16章 創造的思考の鍛え方 17章 マインドマップでグループの力を上げる
第5部 マインドマップを使いこなす方法 <個人編> 18章 自己分析 19章 コミュニケーションの問題解決 20章 マインドマップ・スケジュール術
<ファミリー編> 21章 知育と家庭学習
<教育編> 22章 知的生産の技術 23章 楽しく刺激的に教える技術 24章 大量の知識を獲得する技術
<ビジネス編> 25章 マインドマップ会議術 26章 マインドマップ・プレゼン術 27章 マインドマップ経営術 28章 PCで作るマインドマップ
<未来編> 29章 知的革命の時代
第6部 付録 ●クイズ:天才たちのノートを探せ ●解説:神田昌典
ーーーーーーー 2004年11月13日(土) 1320, 2000年前のポンペイ −3
小プリニウスの「手紙」−1
ポンペイについて書いた直後に地元の新潟中越地区に大地震がおきた。 何かの偶然の一致だろう。
ポンペイの遺跡から当時の情報が多く知ることができた。 歴史から忘れられたポンペイの遺跡が発見され、発掘が始ったのが 18世紀の半ばであった。 そして現在に至るまで250年にわたって発掘が続いている。 まだ発掘してないところが多くあるという。
歴史家のタキツゥスが、書の中で当時のある若い青年の手紙を残していた。 当時まだ17歳だった青年の2通の手紙が当時の模様をこと細かく整然と 後世に伝えていた。 その文章を読んでいると、その一言一言が身に沁みる。
その青年とは、当時、地中海艦隊の司令官として ナポリ湾岸の町ミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、 小プリニウス(61年頃〜112年頃)である。
歴史家タキトゥスの求めに応えて書いたこの手紙は、 ローマ帝国内の美しい都市に起きた大惨事の貴重な目撃談となっている。
この手紙を読んでいて、彼の驚きと当時の若い彼の興奮がそのまま、 2000年の時空を超えて伝わってくる。
「言葉を持つことは魂を持つこと」という言葉の重みを実感する。
発掘された遺跡の姿そのものが、そのまま 人間の変わらない生活と真実を伝えている。
ーー 小プリニウスの「手紙 ー6月16日の手紙
伯父の死をできるだけ正確に後世に伝えるため、あなたに手紙を書くように とのご依頼を受け、私はとても嬉しく感じました。
というのは、伯父の死があなたによって書き留められることで、 彼に不滅の栄光が与えられると考えたからです。
恐ろしい災厄によって死んだために、伯父の死は、他の被害にあった住民や 美しい町とともに永遠に記憶されるでしょう。
また、伯父自身、後世に残るであろう多くの作品を書いています。 しかし、それに加えてあなたの著書に書き留められるとすれば 伯父の歴史上の記憶は、より確かな、永遠のものになるはずです。
私は思うのですが、歴史に残るようなことを行うか、 あるい、は価直のある文章を書く能力を神から与えられた人は恵まれた人であり、
しかもこの能力を2つとも与えられた人は、最も幸せな人です。 私の伯父は、彼自身の著書とあなたの御著書とによって、 そのような恵まれた人物の一人となるでしょう。
というわけで、私はあなたの御依頼をお引き受けいたします。 いや、むしろこちらから進んで手紙を書かせて頂きます。
伯父はミセヌムにいて、船団の指揮をとっていました。 異様な形の巨大な雲が現れたことを母が伯父に知らせたのは、 9月の第1日より9日前(8月24日)の第7時(午後1時)頃のことでした。
伯父は日光浴と冷水浴をしてから軽い食事をとった後で、 ちょうど仕事の最中でした。
伯父は靴を持って来させると、その超自然現象を一番よく観察できる場所に のぼりました。 見ると雲が湧き上がっています。
遠くからではどの山から出ているか分かりませんでしたが、 やがてヴェスヴィオ山から出ていることが分かりました。
まるで松の木が巨大な幹を上に向かって伸ばし、小枝を空に広げたような形の雲でした。 多分、蒸気によって吹き上げられた噴煙がしだいに自らの重みによって横に広がり、 そのような形になったのでしょう。 雲はところどころ白く、また土や灰を含んでいるところは灰色に汚れていました。
博学な伯父には、これがもっと近くから観察すべき大事件であることが分かりました。 伯父はリブルニア式ガレー船(2段擢の軽装傭船)に部下を乗り込ませ、 私にその気があれぱついて来てもよいと言いました。
私は勉強しているほうがよいと答えたのですが、そう答えたのは、 他ならぬ伯父から課題を与えられていたからです。
伯父が家を出ようとしていたとき、友人タスキウスの妻レクティナから伝言が 届きました。彼女は身に迫る危険におびえていました。
彼女の家はヴェスヴィオ山のふもとにあって海路でしか脱出できません。 そこで救いを求めて来たのです。
伯父は急遽予定を変更し、救助に向かうことにしました。 研究心から乗りかかったことを、義務感という高い次元の感情で実行することに したのです。 レクティナだけでなく大勢の人々を救助することに決め、 4段櫂ガレー船を用意させてみずから乗り込みました。
魅力的なその海岸には実際多くの人々が住んでいました。 人々が脱出を始めているその場所目指して伯父は急ぎました。
航路を直線に保ち、危険に向かってまっすぐに舵を取ったのです。 全く恐れることを知らない伯父は、噴火の全段階と様相を、 目にするそばから人に書き取らせるか、みずから書き留めていきました。
すでに灰は船の上に降り注いでいました。 目的地が近づくにつれそれはしだいに熱を帯び密度も濃くなりました。 真っ赤に燃える軽石や砂利も見え、川床が露出し、崩れた岩が岸を塞いていました。
伯父は引き返すべきかどうか一瞬ためらいましたが、 水先案内人が引き返しましょうと進言すると答えました。 「勇気を持て。運命の女神がついている。ポンポニアヌスの家に進路を取れ」。
この家はスタビアエにあり、ミセヌムからは湾の半分程難れていました。 海岸線はわずかに湾曲していて、そこに海が入りこむような形になっていました。
このあたりには、当面の危険はなかったものの、状況は目に見えて危うくなって きていました。
ポンポニアヌスは船に荷物を積み込み、向かい風が止んだら直ちに出航するつもりで いました。 この風がじつに都合よく伯父の船を押し進めたのです。
無事上陸した伯父は、ポンポニアヌスを抱きしめて慰め、元気づけました。 そして、自信に満ちた態度を取って友人の恐怖心を和らげようと、風呂場に 向かいました。 水を浴びると食卓につき、楽しげに食べました。 というよりは、これが伯父の偉大なところで楽しいふりをして、 友人を励ましたわけです。
この間、ヴェスヴィオ山の何カ所かで大きな炎や火柱が上がり、 その輝きが夜の闇にあかあかと浮かび上がりました。
しかし、伯父はみなの恐怖を鎮めようとして、あれはあわてて逃げた農夫が 消し忘れていった火だとか、取り残された屋敷が燃えているのだと繰り返しました。
それから少し休憩するといって、本当に眠り込んでしまいました。 伯父は太っていたため寝息が大きく、戸の前を行き過ぎる人にもいびきが 聞こえました。
しかし、伯父が休んでいる部屋に通じる中庭は、すでに軽石混じりの灰に埋まり、 もう少し休んでいたら脱出できなかったと思われるほど地面が高くなっていました。 目を覚まして起き上がった伯父は、一晩中起きていたポンポニアヌスらのところに 戻りました。
彼らは屋内にとどまるぺきか、外に出るべきかについて協議を重ねていました。 頻繁に起こる大きな地震で、家は土台から大きく揺れ、それも今こちらに揺れたかと 思うと次はあちらという具合でした。
一方、家の外では人々が軽石の雨におびえていました。屋内と屋外、両方の危険を 検討し、結局外に出ることになりました。
伯父にとっては当然の判断でしたが、他の人々にとっては恐ろしい方の選択でした。 皆、頭に枕を載せて布で結わえ、降って来る軽石から身を守ろうとしました。
もう夜は明けていたのに、屋外ではまだ暗闇が続いていました。 どんな夜よりも深くて濃い闇がたれこめていたのです。
とはいえ、いくつもの赤みを帯びた輝きや様々な光が闇を照らしていました。 一行は海岸に戻り、船を出せる状態かどうかを確かめることにしましたが、 このときもまだ海は荒れ狂っていました。
伯父は海岸の地面に布を広げてその上に横になり、 何度も冷たい水を欲して飲みました。
火の前ぶれである硫黄の匂いが近づいてきたため、伴の者は逃げ出しました。 目を覚ました伯父は2人の若い奴隷に支えられて立ち上がりましたが、 すぐに倒れてしまいました。
想像するに、煙がひどくて喉がつまり、息ができなくなったのでしょう。 もともと伯父は喉が弱く、終始咳き込んでいました。
伯父が見た最後の日の出から3度目の太陽が昇ったとき、伯父の死体は 無傷のまま発見されました。服は出発したときに着ていたものでした。 死体というよりは休息している人の感がありました。
この間私と母はミセヌムに居ました。 しかしそれは歴史とは関係のないことです。 あなたも、伯父の死についてだけお知りになりたいのでしょうから、 これで終わりにいたしましょう。
ただ一つだけ追加いたします。 それは、私は自分で目撃したすべてのことを、そしてまた、記憶の確かな 事件直後に聞いたことを、書き記したのだということです。 じっさい、手紙を書くことと歴史を書くこととは別のことですし、 友人に書き送るのと、万人のために書き記すのとでは違うのですから。
− つづく ・・・・・・・・ ・・・・・・・・ 2003年11月13日(木) 953, 腰痛ー2
腰痛のことは以前にも書いたが、一昨日の朝、例年どおり腰痛が出た。 いつも季節の変わり目に出るが、私の場合は寒さで体を冷やしてしまうのが 一番の原因である。 いま一つは、パソコンを座って打っていると腰に負担がかかる。 今のところ時間をかけて暖めるしか方法はない。
間接的には、パソコンと寒さがあるが散歩の後、屈伸とストレッチをしたのが 悪かったようだ。
腰痛について書こうと思って過去の随想日記を調べたら、去年の連休後に 書いていた。五月の連休後も例年腰痛が出るのだが、今年はどういうわけか なかったが。
腰痛になると何もする気が起きなくなる。 また一回一回ごの痛みの内容が微妙に違う。しかし今まで一回も医者がかりはない。 経験上、暖めていると長くて10日で大体直ってしまうからだ。 その治療法を40年近くしている。
インターネットで調べたら、腰痛にも色いろある。 デスクワークの人や、お産や生理が原因であったり、内臓の負担からくるものや、 運動のやりすぎ、等々ある。 今朝おきたら3分の1位に痛みが減っていた。 全治四日の予測が当たっていたようだが、どうなることやら。
ーーーーーーー 401, 腰痛 - 1 2002年05月09日(木)
昭和38年の三八豪雪の時、長岡高校の屋根の雪落としをしていて、 腰痛になってしまった。
母が腰痛もちで、よく腰が左右に曲がっていたのを見たが、 それがそのまま遺伝したようだ。 腰の骨が本当に左右にずれるのである。
その時の痛みは言葉に言いがたく、脂汗がにじみ出る。 大体が季節の変わり目に出る。
その対策として15年前から散歩を始めたが、今は腰痛対策というより、 精神的肉体的両面の健康のすべての対策になっている。 散歩も一日30000歩を超えると、逆に腰痛になる。
人間の今の身体の構造は、歩く前提で出来ているという。 何かあったら歩くのが一番自然だ。
腰痛は猿が人間に進化する過程で、腰に不自然な力がかかるようになった。 その結果、人類共通の持病になってしまった。 歩行がその対策によいことは、15年続けての実績で解る。 しかし完治はしない。
腰痛が出はじめたら、ホッカイロをその部分に当てるのが一番効果がある。 (母の対策を見て知ったことだが)それで4~5日で直るからだ。 医者には一度もかかったことはない。 あとは腰痛と仲良くしていくしかない。
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579,ある時間の断片ー11 - 2002年11月13日(水)
1968年 9月29日ー日曜
8時起床、午前中は部屋と寮の大掃除。 気持ちもすっきりした。 午後は3時間、明日のための準備の読書だ。
そういえば最近寮の他の人との距離が出てきたようだ。 仕方がないのかもしれないが、あまり開放をしていると 自分の世界が保てない。 彼らは彼らの価値観があるのだ。 当然のことだが、20数年お互いに違う道を歩いてきたのだから 仕方がないことだ。 これからもまったく違う道をお互い歩くのだから。
そのことを考えれば今の疑問が少しは晴れるだろう。
1968年 9月30日ー月曜
8時10分前起床、学校に出発をする。 武澤ゼミに参加する。 武澤先生に皮肉を言われたー少なくとも私のいい加減さを 指摘されたと感じた −気持ちだけは積極的になっているが、その実はやっていることは いい加減だということだ。 ゼミ終了後、図書館で卒論のまとめをする。 気持ちが落ち着かず中途半端であった。
校庭であった奥野と中野と話をする。 試験がその後あった、ここは出ないと思っていたところが出てしまった。 もっと駄目押しをしておけばよかった。70点ぐらいだろう。 兼子と池袋駅まで一緒であった。 バスで帰るがこの風景もあと半年で終わりだ。
帰寮後夕食に行くと、寮の佐藤嬢がいる。 少しの時間だが食事をして話をする。
何か毎日が矛盾だらけだ、今日の先生の皮肉が聞いたのか気持ちの 動揺が残っている。 現在の自分はゼミと卒論に気持ちが集中している。 それと就職のことがーこのまま就職してよいのだろか? 今の寮生とあまりに気持ちが違っている、これも仕方がないか?
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