USOハンターは荒野を目指す |
今鳴る時計は11時半 あたしゃホントに帰りたそう
てなわけで眠い。やる気しねえ。文章おかしいが気にしねえ。 最近はラッパ節ばかりが頭を回っております。 頭が回らないので日記だ日記。
先日、友人がやっているバーに飲みに行ってきました。常連さんや人生のベテランが味のある話を繰り広げていてそれはそれはおもしろかったです。 しかし、4時過ぎの時間帯にサラリーマン2人組(一見さんらしい、よく知らないが)が入ってきたのですが、こいつらがもう、心底しょうもない。 久々に「ああ、これだからサラリーマンってイヤなんだよな」と思わされた。あ、私もサラリーマンではありますがね。会社では沢山のサラリーマンに囲まれてますけどね。 具体的に言いますと
話 が つ ま ら な い
ただつまらないだけならばいいんだけど、なんつーのかな、 「俺らはおもしろい」 というスタンスを持っているんだよなー。「俺」ではなく「俺ら」ってところがミソ。決して単体ではないのだな。 その時同席していた某文筆家の方が、「じゃあ君たち、今までで一番恥ずかしかったこと話してよ」と酔っ払いながら聞いておりまして、その方も私もいろいろと話したんだが(ちなみに俺は、別にそれが一番恥ずかしいわけではないんだがケジラミをうつされた話をしといた)、片方のリーマンは「オナニー覚えたての時、オナニーが止まらなくなってちり紙が大変な量になったんだけど、その紙をトイレに流して処理しようとしたらトイレが詰まって親にバレた」という話をしていたからよい。 しかしもう片方のは、こいつこそ「俺らはおもしろい」自覚丸出し(原口あきまさ似)の男なのに、 「恥ずかしいことが思い浮かばない」 とのたまい、 「最後にしたセクースは、飲み屋で知り合った知らない女の人に誘われて」 というのを言っていて、なんだか非常にしらけたのでした。 軽めの自慢でありますか? 軽めのウソでありますか? いや、今考えるとリアルに恥ずかしい話だよなコレ。笑える要素ゼロ。 それが軽く自慢になっているところがもっともお寒い。 あと、何かにつけてのツッコミをわざと三村マサカズ調に言うのもお寒い。 我々が話す話をすべて「そんなの全然おもしろくねえよ!」「変態かよ!」などとこき下ろした感じで言うのもうっとーしー。 彼らが帰った後、某氏が 「自分たちが薄っぺらいことをまったくわかってないね」 とぼそっと漏らしたんだけど、ああ、まったくもってその通りだ。 合コンレベルの話題(話術は別)しか持ち合わせていないくせに、他人の価値観を頭からバカにしたりすんな。 ここ最近のサラリーマンは、っていうと語弊があるか、20代後半〜30代前半のサラリーマンには、どうしよーもなく薄っぺらいのがいるのでありますよ。ごく一部にだが。 小学生の頃から自己紹介で「自分のせいかくは、おもしろいです」なんて言っちゃうような男子に私は激しい拒否反応を示していたんだが、(なぜならば「おもしろい」か「おもしろくない」かを決めるのは、その男子を見ている自分だと思ってたから)そういう男子ってのは「おもしろい」と自己申告してしまった手前、おもしろいか否かを審査され続け、結果そうでもないところに落ち着き、違う自分を発見するのが常であると思うのです。そうやって人は成長していくんだと思うのです。 しかし、ある程度の年齢に達してから、「俺、お笑いやりたい」だの「俺は(合コンなどで)結構ウケがいい→俺イケル」だのと自覚してしまった男ってのはタチが悪いんだよな。「おとな面白自己申告」は本当につらい。まだ自我が確立していない、頭のやらかい子供よりも頭が固くなっていたりヘンな自我確立させちゃってたりするから。「おもしろくないよ」と言われても「いや、あいつが見る目がないだけだ。俺は面白い」と思い込んだりするから。いや、自分で自分をおもしろいと言い聞かせないとダメなんだろうけど。 しかもその志が強固なわけではないところが難点だ。話がやや矛盾するが、自分で「俺らおもしろいキャラ」なんつってる奴は、本当に自他共に認める面白い人の前ではなんもアクション起こさないからな。しかも、その人がおもしろいかどうかは別として、「他の人にも絶大におもしろいと認められている」という部分のみに反応して。
ああ、ここまで書いて思ったけど、これ、サラリーマンに限った話でもなく、男に限った話でもないか。 いるわな、学生にも、女にも。ごめんサラリーマン戦士たち。限定してすまん。 そしてこれは「おもしろい」って価値観以外にも言えることだ。 どんな価値観でアレ、 「自分で認識している自分があまりにも間違っている人」大杉。 もっと自分をちゃんと認めろよ。 三田村惣一郎先生も「自分と会話しろ」と言っているではないか。
話はやや逸れるが、自覚がないってのは、自分の認識が間違っている場合もあるが、自分で「そうじゃない」とわかっていてもそうだと思い込む「自分にウソをついている」ってのもありますな。 最近読んだ本に「だめ恋愛を繰り返す女の人は自分にウソをつくことに慣れている人が多い」と書いてあったのだけど、 これは女に限らず言えると思うのですよ。男でも大抵ウソを平気で言うような奴は、自分にもウソをついておるね。男女ともに、自分でウソを信じようとするからね。ウソついている自覚すらない。 そして、言うまでもないことだが、そういう人間のつくウソってのは非常に薄っぺらい。浅はか。簡単にバレる。 だからその人間すらも薄っぺらくなるというわけである。 私も過去に何人かの友人や男性と決別してきたことがあるが、一番の原因はいろいろあれど、大抵の場合がウソ出発点。 正確に言うと相手の言っていること/言っていたことがウソだってバレた時こそが出発点で、崩壊点だ。 ウソによってファイナルカウントダウン(ヨーロッパ)がタラターラータラタッタッターと鳴り出してきた。 ウソをつくのは許せない!んではない。いや、もちろん許せないんだけどさ。
一度ウソつかれて、それがウソだってわかってしまうと、もうその人のやることが全部ウソに思えてしまうんだよ。
まったく信用できなくなってしまうんだよなー。 友人にしろ恋人にしろ、または夫婦にしろ、相手のことを信頼できなくなってしまったら、そりゃあ終わりだと思うのですよ。自分がな。それは信じられなくなる私のほうの欠陥なのかもしれないが。 相手を許す、ということも大事だろう。しかし、ウソをつく人って大体自分にもウソをついていて、しかも厄介なことに自分でそれをホントにしようとする(=ウソを信じ込む)からな。そうなったらわしはもう何もできないわい。ウソを信じる人/信じてくれる人と永遠に一緒にいればいいよ。(ただし後者は離れていくかもしれないけど) 私もウソをつくことはありますよ。生理でもねえのに生理痛っつて会社休むと「おまえは月に3回も生理がくるのか!」と怒られたこともあるさ。その他もろもろ覚えはありますさ。 しかし、自分をウソに馴れさせるのはいやだなあ。気分がいいもんじゃないし。そもそも気持ち悪いし。 私は自分ともうちょっと向かい合いたいのでありますよ。かっこつけた言い方させていただくが。 あと、もうちょっと人とも向かい合っていきたいのであるよ。関わっていきたいのであるよ。騙したくねえんだよ。ずる賢い生き方を強要されるこの資本主義社会ではウソなんてついてナンボなのかもしれんが(あ、最近の俺はなんだか共産主義みたいなことを口走るなあ。あぶないあぶない(福田和子))、 私の知っている限りではウソをついてウソで塗り固めている人間こそが生活的にも文化的にも人間的にもレベルが低くて、搾取されやすい人間なんだけど。 よくも悪くも「その場凌ぎ」が生き方になっちゃってる人な。
まあ、私と関係ある/ないに関わらず、自分にウソをついている覚えがあったり(まー自分にウソついている人間は多分「これ、私違うわ」って思うんだろうけど)、身近に病的なウソつきがいる場合には注意してくださいませ。自分にウソついていることに慣れている人はまずは正しい自覚をば。自分と会話せよ。そして、病的なウソつきが傍に居る人は、ウソを許しているととんでもないレベルにまで増長するから気をつけて。(どっちかというと後者のほうが深刻に心配)
まあ、すべてのウソを禁じるわけではない。 生きている限りは嘘をつかなければならないような状況もあるし、本当のことを必ずしも言うべきではない時もある。 そんな時のウソはウェルカムであるが、 簡単な、バレッバレなウソなんかつくなよ。そんなのはつき損だよ。いや、つかれ損であるよ。 どうせつくならば、誰にもばれないような完全犯罪のウソをつくべき。 でないと、ウソをついた相手にも申し訳ないことになる。 「なんだよ、この程度のウソで通用すると思われたのか。ナメたもんだな」 とか思われるから。 あ、ウソが原因で決別した人に対して一番思う感情ってこれだった。「こんなウソで俺を騙したつもりなのかよ、なめてんじゃねーよ」って憤慨するもんなあ、いつも。ああ、今、脳内には過去にどうしようもねえウソをついて去っていった人間の顔が沢山浮かんでおりますよ。みんなちぎれて死んでしまえ。
あれ?話が見事にずれてったな。 しかし今日の日記は支離滅裂だ。まあいいや。
キタコレ!戯れ言も21日分更新されとります。こちらもどうぞ。
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2006年03月23日(木)
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