義理義理ライオットガールズ |
「私の自慢は目がいいことと胃がいいことだ」と先日書いたばかりですが、もうひとつだけ自慢させてくれ。 私は、とても義理堅い人間なのである。 「自己認識と客観的認識が大きく間違っている人間は見ててつらいよな!」といつも思うのですが(外見・言動が激しくオタクなのに「俺、オタクには見えないし」と言ってしまう様なことな)、周りの人間から見て「ええ!オマエが義理堅い人間とは微塵も思っちゃいねーよ!」と突っ込まれることも承知の上です。「自分からこういう人間だとアピールする人は実際はそうでもない」といつも思うのですが(私って天然ボケでぇ、と言う女はすべて計算ずくだったりするようなことな)、周りの人間から見て「自分で言ってるうちはそうじゃねーよ」と鼻で笑われることも承知の上です。そのうえで敢えて言わせてもらいますよ。 私は、とてもとても義理堅い人間なのである。 とてもとてもとても、と書きたいがそこまでは自信がないのでとてもの二乗でとどめておこう。 まあ、「義理堅い」ということがかならずしも「善」であるとは限らないので、自慢にはならないのかもしれん。むしろ義理堅いというのは、無理や自分の感情の押し殺し、「まあしょうがねえなぁ」という気持ちなどから発生することなのでマイナス行為だと思う。でも、ま、自分にとってマイナス行為であろうとそれで地球や日々の生活が穏便に回るのであれば、そんなマイナスなど取るに足らないことである。日ごろのご恩に比べればなんてことはない。義理、すなわちすべての円滑剤。あと、私は年長者はなんだかんだで敬わなければイカンという認識があるので(その割にはタメ口聞いたり失礼千万なことを繰り返しているが)、やっぱり義理は大事だと思うのだ。 年長者は立てなければ。 だから年長者が「コイツが謙って当たり前」と感じるのは非常に正しいことだと思うのである。「コイツ生意気だ、俺の言うことを聞けや」と憤るのも正しいことなんだと思う。悔しいけれど。ああ、悔しいんだホントは。生まれた順番が早かったか遅かったかだけの問題なのに、と思う場面は多々ある。でも遅く生まれてきた朝は・・・とばかりにそれもしょうがないのである。朝じゃなくて昼でもいいんだが。 そんなことはどうでもよくて、悔しい時に思うのは「私も早くその年になりてぇな」ということである。幾つになっても「早く大きくなりたい」という気持ちを持つ機会はあるのだ。 そして続けて、「私がその年になったらこいつらのよな恩着せがましい連中にはならないのにな」とも思うのである。人間は成長する。今、こういう大人になりたくないなと思ったら、その年になるまでそれを実行できるからな。そうやって成長できるからな。
年長者の言うことは人生の指標になる。私は比較的、壁にぶつかったり先のことで迷っていたり、自分の中で好ましくない感情が沸々としてきたりすると年長者に相談をすることが多い。事情はさまざまあれど、よりよくこの世が回ればイイと思う。自分の独断的な意見だけで前に進むのは、後々好ましくない状況に陥りやすいからだ。 だから、年長者の意見はいつだって耳を傾けるべきだと思うのです。 しかし、すべてが指標であり苦言であり忠告でありアドバイス(アドバイスって忠告と同義語だったか)であるとは限らない。そういうのが顕著に表れるのが「俺が〜してやったんだ」的言い草である。いくら年長者といえどこれは癇に障るなさすがに。 年長者の行為に関して、「ああ、この人は〜してくれたんだな」と思い、感謝の念に駆られることはよくある。本当にありがたいと心から思える。 しかし「〜してやったんだ」ということを表示される(主に直接的な言葉で)と、それがたとえありがたいことであっても「ハァ?」と思うのである。 「感謝の念を持ってくれ、俺に」と釘をさされているようで、非常に困惑するのだ。 感謝の念を持って、というのがさらに転じて「自分は尊敬されるべき存在である」というところまで達してしまうともう重症である。うっとーしー。本人の自分好きが相当なものなことに関しては何も言うまい。誰を愛そうが自由だ。しかし自分崇拝を自分の体の外にまで漂わせてはいかんと思うのだ。内心ものすごく自分のことが好きで、周りも自分のことが大好きであると思っていても、ポーズとして「いや、自分、たいしたことないから」と言って欲しいなできればでいいから。 しかし、自分崇拝を外界に求めていく人間ほど陳腐になっていくというのは世の普遍なんだろうか。自己認識と客観性は反比例するものなのだと思う。違うな、自己崇拝とまぬけぶりが反比例してんだな。 ああ、年長者とは関係ないところに話が。 年長者の「〜してやったんだ」的言い草も、言えば言うほど大したことねえじゃん度を増すのである。純粋に横たわるものが「年 齢」の二文字なのだと気づかされていくのである。 そしてこの「純年齢差」に対して、私は「義理堅く」やってきたつもりだったんだが。 そんなに義理堅くなる必要もないんではないか。 まさに「早く生まれたか遅く生まれたか」だけの差なのである。文字通りすぎて改めて書くのも馬鹿馬鹿しいが。 でもなぁ。その「純年齢差」こそが人間関係の絶対であるのも事実だからな。 年長者は敬うべき存在だ。多少のぐらつきはあったとしてもこれは否めない事実だよ。降参だよ。認めますよ。私はそう教え込まれて生きてきたよ。純年齢差を振りかざされた物言いに対しては、いろいろと諦めておりますよ。 でも、もうすべてのことに御家人のごとく義理堅くなる必要はないのかもなー。 とくに、「純年齢差」に基づく、関係の優位性を突きつけられちゃった時には(この関係は自分次第でどうにでもなるんだぞ!という類の)もう、素直に降参するようにしようかと。誰が悪いわけじゃない。誰を憎むわけでもない。誰をウザイと思うわけでもない。ただ、そこに横たわる「年 齢」の二文字の前に頭を下げて、その存在を素直に認めようというだけのことだ。どんなにあがいてもイカンのである。年齢様様だ。逆転不可能だ。エイジレスなんて大嘘だ。
蛇足だが、さらに言うとこの「純年齢差」は「性別差」とも深く絡み合う。 「男性で年長者」これが一番ヒエラルキーが高く、「女性で若輩者」すなわち俺はヒエラルキー最下層なのである。 ただちんこがついてないだけと遅く生まれてきただけなんだけどな。 だけどその2つはいつまでも付きまとっていくのだ。私は早く年取って男になりたいよ。(綿の国星的発想)
そんな私の年に一度の義理堅さイベントこそが「バレンタイン」だ。 まあ、私に限った問題ではなく世の女すべてが「男に対して義理堅くならざるをえない」日なわけですが。「無理にあげる必要もないよー」とはよく言うが、それで実際にあげなかった時の男性のビミョウな心理変化に対して気の毒だなぁと思うので(実は年長者に対して義理堅くなるのも、そうしてあげないとなんだか空威張りしてるようで気の毒だなぁと思うからなのです)女性は義理チョコをあげるのです。義理堅いよなぁ女って。 んで、私も部署が移ったので今の部署でのバレンタインは初めてなんですが。 他の女性の方から「チョコを配る人数」を聞いてたまげました。
69。 シックスティーナイン。 村上龍?
なんなのこの天文学的な数字は。 しかも、わざわざ配ってもホワイトデーのおかえし率はたったの3人程度らしい。 私も去年のバレンタインは10個くらい個別に配らなくてはならなくて、回収率は1個であった。とほほ。なんのための義理チョコだ。なんのための義理堅さだ。 やっぱり「どうせ義理チョコってくれるもんなんだろ?俺が日々仕事を教えてやってるんだから」っていう気持ちがあるんでしょうか。いや、きっとそこまで思ってないだろう。「〜してやってるんだ」って気持ちの発生って無意識だからな。
バレンタインは女(そして若輩者)にとってイベントなんかじゃねえよ。 私が勤続10年以上になったらこんな制度はきっと辞めにしてやろう。 それまでに年長者の先輩の人たちは皆、やめてくれるのかな?死んでくれるのかな?
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2005年02月08日(火)
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