股・戯れ言
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生きていくのがつらい日は

生きていくのがつらい日は、何はさておきナンシー関の本を読むようにしてきた。
高校のときからの習慣だからもうだいぶ繰り返し読んだわけだが。受験結果が思うようにいかなくて、行きたくもない大学にいかざるを得なくなった時、遠くて長い通学時間をナンシー関の本を読んでやり過ごしてきた。(もっとも、受験前日に洋楽バンドの歌詞を訳したりしてりゃ思い通りの受験結果を得られるわけがないので何をいまさら言ってるんだか)
とある大事な人物が旅立ったときとか、すごく仲良かった友達と些細なことで喧嘩別れしてしまったときとか、なかなか決まらない就職活動に絶望的になっていたときとか、就職してはみたものの空虚感に悩まされていたときとか、理解者の人たちや友達と話すことで自分の中のもやもやを消していたつもりだったけど、やっぱりベッドで横になりながら何度となくテレビ消灯時間などを読み返すという何気ない行動に一番支えられていたと思う。
辛いことや不幸だと思うことが無意識のうちに忘れられた。
そういうのを現実逃避というのかもしれない。
でもナンシーの本を読むことで、辛さに浸っている自分なんか鬱陶しくてバカでどうしようもない、と思っているほうの自分(客観性)のほうが多かれ少なかれ活発になり、なんとかやり過ごせてきたのも事実だ。(しかし何がどうして現実逃避先がナンシーの本なのかは説明できないが)
そしてくだらなくてどうしようもないテレビをつけて、自分でもナンシー的視点でテレビを評価しながらも「ああ、ナンシーはコレについてどう書くんだろ。早く新刊出ねーかなー」と期待して日々を消費してきた。そして期待も辛いことも忘れた頃にフラっと立ち寄った本屋で新刊を見つける。私の生活スパンなんてだいたいそんなもんだ。
ナンシーがコレ聞いたら気持ち悪いって思うだろうな。
失恋したのでシミケンの「失恋レストラン」聞くことと同じように扱われてるんだもの。あ、でもナンシーの無人島レコードは失恋レストランだからいいのか。何が何だかよくわからないオチだが。

ナンシー関が逝ってから1年が経とうとしている。
この1年の間は何だかんだと言いながら各社から遺稿をまとめた新作が出ていた。しかしもう遺稿をまとめた新作の出る気配もなく、生きていくことが辛くなるようなことがあったらまた「何様のつもり」から順々に読み返していくことになるんだろうなと無意識のうちに思っていた。
辛いことは突然やってくる。私はやっぱりナンシーの本を読み返した。読み返して読み返して、「最後のカリスマ 福留功男」でまた笑った。辛いことは終わっていない。ナンシーの新作はもう出ない。
と、思っていたら昨日本屋でナンシーの新作「何をかいわんや」を見つけた。
何の因果でか知らないけれど、よりによってこんな時に見つけるとは。
生きていくことは辛いけど、こんなに嬉しいこともある。
そうやってずっと生活していくんだろう。
って何もそこまで崇高に書くことでもないんだけれどさ。



ああ、また前の日記が途中で終わってた。
明日あたり落ち着いたら続きを書こう。
2003年06月03日(火)

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