(9/12(水)22:34)
使命、という言葉を久々に聞いた。彼女の使命について切々と語った女性は、テロ事件のことを話しているのではなかった。でも、それからずっと、使命、という言葉が頭を離れない。
殉職した約300人の消防士、約100人の警官は、市民の命を守ることが使命だったのだろうか? そして無差別テロの実行犯は、このテロを遂行することが使命だったのか? ラディン氏よりイスラム原理主義より、ハイジャックの実行犯のことを考えてしまう。 果たして彼らはWTCに激突するその瞬間、陶酔の中で死んでいったのだろうか? 許せない、とか、なんて酷いんだ、という言葉がのどの奥でつっかえる。 宗教、民族、といった要素がからむと、憎しみ、怒り、というより、もうどうしようもないほどの無力感を覚える。 自分が何も出来ない無力感というより、きちんと物事を理解さえできない無力感。
確かにパレスチナ民が万歳して喜んでいる姿はぞっとする。だけど、何故彼らが喜ぶのは間違っているか、誰が彼らにきちんと理解できるように説明できるんだろうか?彼らの多くにとってはアメリカは不正義の象徴であって、侮蔑の対象でしかない。
わたしにわかることと言えば、やっぱりテロはいけないと「思う」ことだけだ。そしてアメリカがするであろう「報復」がまた市民を巻き添えにするのだと思うと、それこそ何故神は人に戦の試練を与えたのか、と嘆くしかないのだ。そして神ってどの神だよ!誰かも言っていたように、戦争はやはりなくならないのだ。
「いきものを虐殺することは人間の本能である」と正当化する人物に、 「では人間を殺すことも正当化できるではないか?」と問うたら、その匿名の人物は「既に周知の事実ではないか。あんたは湾岸やコソヴォで一体何を見てきたんだ?」と言われた。何かを見たといえる自信などないよ。
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