たまに××したり。
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2003年05月21日(水) |
悲しみはボディブローのように。 |
そこにいるのが当たり前の人がいなくなってしまうことの悲しさは、あたしにはまだ、ぴんと来ない、と先日日記に書いたばかりだ。
いるのが当たり前の存在って言うのはものすごく大事なもので、まさにかけがえのない存在なのだろう。 例えばその方向性が全く異なっていたとしても、ただ存在することに意味があると言うような関係はそうは簡単には築けない。
今回、ゆーじくんがいなくなるに当たって、あたしは前々から心の中でシミュレーションしていた。 いなくなることでせいせいするのだろうか、とか、それでも2年間、一緒に過ごしたことの思い出が勝るのだろうか、とか、最後ぐらいはびしっと気の利いた言葉をかけて送り出したい、とか、いろいろ考えていたのにも関わらず、たかが同じ職場の同僚、と言うだけ、それもたかだか2年の付き合い、にも関わらず、不覚にも心にぽっかりと穴があいてしまったようで、自分でも驚いている。
個人的に特別な付き合いがあったわけでもない彼との別れで、しかも、またいつか会うこともあるだろう別れなのにこれだけショックなのだから、もし、夫と別れることになったら、どんな気持ちになるのだろう、と余計なことまで考えた。
離婚した友達が、離婚したばかりのときに、今までそこにいた人がいなくなるということはさびしいことだ、と言っていたのを思い出した。 あるべきものがない、そんな感覚なのだろうか。
もし何らかの理由(離婚・死別ともに)で、ひとりになることがあったとしても、もう2度と結婚はしないんじゃないかな。 少なくとも、さびしいと言う理由だけでは絶対に。
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