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2004年02月11日(水) ■ |
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「亡くなったらしい」 電話の主はそういった。 人が死んだ時、悲しみや涙なんてものはすぐ訪れない、まず訪れたもの、 それは、驚き以外のなにものでもなかった。 「どうして、急に?病気?事故?」 「事故らしいけど、どうも・・・・」 言葉を濁すには訳がある。 その濁りの裏にある特殊な事情が、音としてやり取りすることをとがめる。 その後、交わした言葉は覚えていない。 一体誰にこのことを伝えたらいいのかとか、私達はどうなにができるのかとか、 そんなようなことを話したんだと思う。
電話を切った後、自分の思考は二言目に交わしたあの言葉で終わっている―――――――どうも、自殺らしいんだ。 その特殊な事情を中心軸にして、思い出を思い起こしてみる。 どこにそんな気配があったのか、自分の知ってるかぎり、 覚えている限りの記憶で考えてみる。 こんなことしている時、私は、なぜ特殊な事情を知りたいのかわからなくなる。 ワイドショーがやってることと同じだ。ふっとそう思う。 悲しいという気持ちはいつ訪れるのか、 驚きの次に訪れるはずの悲しみは、今だまだ私に降ってきてはくれない。 それとも、もうほんのり積もりはじめているのか。 それを私にわかることはできない・・・・・・。 驚きの次に訪れた、好奇心ともいうような感情に悲しみは押し戻されてしまってるのか。 好奇心を燻らせる薄情な心に自己嫌悪する、そんな自分がいる。
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