今日のこあら
DiaryINDEXpastwill

こあらの上海旅行記(まとめ

こあらの見た風景(要はブログ) スタートしました。


2003年03月19日(水) 因果応報

この前の日記に触れた海外出張の件ですが、
今日、また改訂されました。

曰く、
本日より当面の間、全世界を対象として、
いかなる理由があろうとも海外出張禁止

ついでに、プライベートであっても海外渡航は自粛願うとのコメントつき。

そんなわけで、しばのアメリカ行きも当面反対するからね>しば

*****************
普段、よく僕は
「探しものをしていて、目の前に物はあるのに気がつかない」
ことをやらかします。

例えば、ある物Aを探している僕にとっては、ある物Aは、形はあっても
「存在しない」のと同じで、気がついてやっと「存在する」ことになります。

また、先ほどの状況で、Aを探しているこあらにむかってしばさんが、
「Aならこあらの目の前にあるじゃない」と教えてくれたとします。
この状況は、しばさんにとってはAが存在しており、こあらにとってはAが
存在していない状況です。

人によって存在しているか存在していないか変化するのでは、真の意味で
Aが存在しているということができるのでしょうか。
真に存在するとは、誰にとっても存在しないという状況がない事を
意味しますからね。

つまり、Aは人が気がつくか気がついていないかの「関係」によって、
存在するかどうかが決まっていることになります。
『世の中はすべて「関係」の集合体であり、それ自身が独立したものとして
存在しているわけではない』が、仏教の基本的な考え方の一つであり、
これを縁起といいます。諸法無我とも言いますね。
般若心経に出てくる「色即是空」も、結局、同じことです。

*ちなみに、この考えかたの正反対の位置にあるのがキリスト教です。

縁起の理論の逆にすると、
「あるものが存在するのは、そこに何か「関係」があるから」となります。
ここでいう「関係」に、過去と現在といった時間の関係をいれたとしたら、
「今現在、ある現象が存在するのは、過去に何か原因があるから」となります。
これが因果律。

**************
イラク開戦間近とのニュースをみながら、
「アメリカが自分でまいた種じゃん」とおもいつつ、
こんなことを考えていました。

日本時間・木曜日の午前10時。
いろいろなことの、終わりの始まりなのかも。
でも、本当の始まりは、この時じゃないような気がする。

いずれも直感なんで、理屈はないんですけどね。


こあら |MAILHomePage

My追加