、まとめ
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こあらの見た風景(要はブログ)
スタートしました。
今日は名古屋出張だった。もちろん日帰り。
新幹線に揺られて往復4時間。その間に頭に浮かんだことさまざま。
1.賢い妻、柴。
柴自身は自分の事をボロボロに日記に書いているものの、実際のところ、柴は頭の良い妻である。特に、柴が「評価」するとき、その賢さを感じる事が多い。
柴さんは、物事を分析しながら眺めるということはしない、というより苦手のようだ。しかし、柴さんは直感に優れている。そして、その直感を言葉にするのがうまい。だから、こあらのようにあれこれ考えながら評価するより、物事の本質を見ぬくのがうまい。それゆえ、美術や小説なんかは、柴さんのほうが、作者の言いたいことを見ぬいていることのほうが多い。こあらが、真似したくてもできない点だ。
日記にしてもそうで、しばさんの文章はすっきりさっぱりしている。それなのに、言いたいことはちゃんと伝わる。こんな文章を書けるようになりたいと、しみじみ考えるこあらだった。
2.言葉遣い
先日、「英語の表現の違いによるニュアンスの違い」のような本を買った。たとえば、毎日遅刻する先生と生徒の会話、「また、遅刻ですね」「そうですね」という会話を、英語にしたときに、"You're late again."の答えが"I know."と"I know that."のどちらがふさわしい会話となるか・・・のようなもの。他にも、「丁寧な表現を覚えるのは必要だが、場合によっては皮肉になる。」みないのものもある。
でも、こういうのって、言葉そのものの問題というよりは、言葉のセンスの問題なんだよね。日本語でも同じなんだから。もちろん、知らなきゃ使えないのは確かなんだけど、知っていても使えるとは限らないわけでしょ?お世辞にもまともな日本語を使っていない人が、英語になったとたんにまともにしゃべられるはずがないもん。だから「言葉遣いにその人の地がでる」なんて言われるんだろうし。
ただ、英語をしゃべるときは、どうしても論理的な考え方をしないと話が進んでいかないのは確かだろう。日本語頭で考えると、ぜんぜん会話できないもん。ディベートってのは、日本語でするにはむかないのかもな。日本語が論理的でないというのではなく、言葉を使う環境が曖昧さを旨としているというか・・・困ってしまう。
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ほかにもいろいろ考えたけど、書けない内容なので今日は終わります。
おやすみなさいませ。