言葉的遊戯
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2002年08月09日(金) 基準という指標

基準っていうコトバについて考えてみた。
いろんな基準。

仕事ばっかりしていると、エアポケットのように突然意味もないことを
考え込んでしまう。
でも、考えている途中で、何を考えていたのかさえ、わからなくなることもある。

「幸せの基準」ってのを考えてみた。
何が幸せなんだろう?
今の僕は、仕事ばっかりで、全くと言っていいくらいに女っ気はないけれど、
かなり充実している。
これは幸せなんだろうか?

恋人がいる人でも、たとえ毎日会って、愛を確認していても、
はたから見れば、「本当に幸せか?」って思えてしまう人もいる。
カップルが隣に座っていたとして、
5分すぎても10分すぎても会話がなかったりするのも珍しくない。
この人たちはいったい何を共有しているんだろう?って思う。
無言の「なにがし」っていうのもあるのかもしれないけど、それもどうでしょう?
車のバックミラー越しに、信号が赤の間、無言で前を向いたままの
カップルがいると、この人たちはいま、何を考えてるんでしょうね?なんて
思ってしまったりしてしまう。
でもきっとこの人たちは幸せなんでしょう。

僕が結論として勝手に思うのは、
「私は幸せですよ」って自覚ができさえすれば、いい方向に向くものなのでしょう。
だって、僕は前の彼女と付き合っていた後半のさらに後半の時期、
あまり「幸せだ」って自覚はしなかったもの。
なにか欠如しているって言う感覚か、「幸せ」ではないっていう気持ちがあったのか、
「幸せ」になるには何かが欠如しているって思っていたもの。

逆に、異性に「好きだ」って言われただけで結婚を真剣に考えることが出来て、
何も疑わずにそのまま結婚できる人だっている。
でもこの人たちが「浅はか」なんて言うことは出来ない。
きっと彼らは「幸せ」という感覚を十分に感じているはずだからだ。

僕の考える「幸せ」の基準はきっと、人よりもピントのずれたところにあるのかもしれない。
今の僕は仕事に追われ、毎日15時間は仕事をし、家に帰ったら、
バタン・キューって感じだけど、全然苦痛には思わない。
友達は「そんなん、ファック・ユーって感じやん」っていうけど、別にそうではない。

「充実」している自分さえ感じていれば、幸せなんでしょう。
その「幸せ」を簡単に考えてしまえるものなのか、そうでないのか、
そのあたりで、遠い将来において、後悔する度合いも決定されるかもしれません。

僕の知り合いで、両親を悲しませたくないから、幸せな結婚をする、とおっしゃる方がいました。
この話を聞いたとき、「この人はもしかしたら、将来、自分にたいして後悔をする人かも?」と
なんとなくだけど、思ってしまいました。
自分の「幸せ」は自分で獲得するものでしょう。
他人のために獲得するものでもないはずです。
この方が、将来、自分に少しでも不遇があったときに、それを他者の責任にされないことを願いますね。

僕は今、充実はしているし、それなりに「幸せ」ですが、
まあ、できることなら、支えある幸せ(誰かのために頑張れる幸せ)を
勝ち得てみたいものですね。
強いて問題とすれば、こんなこと考えるやつにつきあえる女性がいるか、どうか?
それが大きな問題かもしれませんけどね(笑)。



★昔の僕はこんな日々を送っておりました!★



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