Opportunity knocks
DiaryINDEXpastwill


2002年09月10日(火) 前回の創作の続き

 彼が死んで半年あまりが過ぎた。わたしは相変わらず救いのない生活を送っていた。仕事もせず、本も読まず、必要最低限のための買い物のためにしか外にでなかった。時間はただ過ぎていった。窓から洩れてくる光は徐々に存在感がなくなり、空気は透明度を増していき、まぎれもなく冬の到来を告げていた。しっかりしなければと何度自分を叱咤したことだろう。こんなわたしを見たら彼はきっと心を痛めるに違いない、もっとしっかり生きなければと何回自分に言い聞かせたことか。それでもだめだった。わたしの中の何かは動く事を拒否し、わたしをがんじがらめにしていた。

 わたしと彼は大学時代に知り合った。普通の人が普通に参加するサークル活動などには目もくれず、わたしはいつも自分の時間、自分の世界の中で行動していた。誰にも入って欲しくなかったし、そんなわたしの孤独な世界に勇気をだして入ってこようとするものもいなかった。そんなとき、彼と出会った。彼との付き合いは、わたしが落としたパスケースを彼が拾って届けてくれたことから始まった。初めて顔を合わせた日のことをわたしは今でもはっきり覚えている。彼は黒くてくっきりとした瞳でまっすぐにわたしを見ながら、パスケースをさしだした。
「これ君のでしょ。大学の途中にある坂道、…そうそう、あの大きな銀杏の木が立ってるあの坂の途中に落ちてた。学生証も入ってたからすぐ君だってわかったよ。いつも図書館で見かけてたから…。」
わたしはおずおずとそのパスケースを受け取り、ぼそぼそとお礼を言った。
「わざわざありがとう・・。困っていたので助かりました。」
「どういたしまして。そんなたいしたことでもないよ。じゃ、これで。」
彼はそういって歩いていってしまった。わたしは呆然とパスケースを手にしながら彼の後姿を見ていた。彼は話している間中、まっすぐな瞳でわたしをみていた。
わたしは、彼が立ち去ったあとも、彼の人を見通すようなまっすぐな目が頭から離れなかった。

 そんな風にわたしと彼は知り合った。もしあのとき、パスケースを落としたりしなければ、またはパスケースを拾ったのが彼でなかったとしたら、わたしの人生は大きく変っていただろう、いやそれよりも、あの出来事があってわたしの人生は大きく変えられたのだといったほうが正しいのかもしれない。わたしはそのことを思い出すたびに、人の人生の不確定要素がもたらすものについて、あらためて感じ入ってしまう。人と人が出会う事の不思議さ、そして怖さについて。
 わたしと彼はその後、ちょくちょく顔を合わせるようになり、少しずつ話をするようになった。彼とわたしはほぼ似たような境遇にあった。両親とすでに死別しており、自分一人の力で生きていた。自分と同じ境遇、そんな人がこんな身近に、同じ大学にいるということが驚きだった。同じ境遇、同じ思いを共有しあい、理解しあっていくうちに、わたしたちは深くお互いを受け入れ、愛し合うようになった。

 大学を卒業した年にわたしたちは結婚した。ほんの近しい人達に祝ってもらっただけの簡素な結婚式だったけれど、わたしはしあわせだった。彼と出会う前の自分の孤独を思うと、あらゆる神に感謝したい気持だった。もうひとりじゃない。もう孤独じゃない。そう思う事がどれだけわたしの救いになったかしれない。
 わたしの父親は、わたしが生まれたときからすでにいなかった。話した事はおろか今だ顔さえも見たことがない。母親はわたしが17の年に病気で死んだ。死んだ人のことをとやかくいうのは良くない事だけれど、わたしの母親はろくでもない人だった。おまえのことを見ていると父親のことを思い出す、といって、まともに顔も見てもらえなかった。しょっちゅう家をあけて余所の、これまたろくでもない男と遊びまわる、そんな人間だった。そんな生活の中で、わたしは強くなること、ひとりでも生きていけるような強い人間になること、それだけを目指して自分なりに頑張ってきたのだ。母親の死後、彼女が持っていた少しばかりの預貯金と、ありったけの身の回りのものをお金にかえて、わたしは大学へ進んだ。
 自分では強い人間になれたつもりだった。必要以上に関係を求めず、誰にも何も求めない、そういう生活をずっと送ってきた。そんな自分に嫌気がさすこともあったが、仕方のないことだと諦めていた。でも、彼と出会って、彼と一緒の時間を過ごすうちに、わたしはあっという間にそれまでの孤独を忘れた。暗くて救い様がない孤独が、一瞬にして輝くばかりの幸福にとってかわった。それがどうだろう。ずっとそばにいると信じていた彼を突然失い、再びわたしはひとりになってしまったのだ。そして再び絶望的な孤独に包み込まれている。わたしはコンパスを失った航海士だった。どこに向けて船を動かせばいいのか、どこに向かって進んでいるのか何もわからない、自分の座標軸を失ってしまった航海士。それまでは強くなること、ひとりでも生きられるような人間になることがわたしのすべてだった。でも彼を得、そして失った後では、そんなことはもう何の意味も持たなかった。人はひとりでなんて生きていけないのだ、強くなることなんて、所詮何の意味もないのだ。事実、わたしは強い人間になれたようで、まったく強くなんかなっていなかった。わたしは克服したと思っていた弱さが、自分の中に依然として強固に存在することにただ呆然としていた。





n |MAIL