Opportunity knocks
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比較文学のレポートの参考に、翻訳夜話を再読。
比較文学と翻訳は密接につながっている。 翻訳というのはひとつの言語で書かれたものを違う言語におきかえるという作業だけど、その過程でやはり微妙な誤差みたいなものが生ずる。 その微妙な誤差を研究するというのも比較文学研究の1つ。
読んでいるうちにあらためてなるほどなあ、と思った事があったので (あまりレポートとは関係ないんだけれど…)少し抜粋してみる。
…先ずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも何か違和感があるんですね、僕は。何でなのかなぁ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです…(中略)結局自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、良い文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。…(柴田元幸氏の言葉)
優れた文章を読んだときに、それを自分の中に取り入れたいと思うときがある。でもそれは当然のごとくなかなかうまくいかない。技術的なことや頭の良し悪しが関係してるのはもちろんだけど、やはり柴田氏が言われるように変な下心でもって文章に対峙しているからなのだろうと思う。
自分が求めるものをただ無心に読みつづけること。 自分のためのものがそこにあれば、それはおのずと自分の滋養になり、自分の言葉になっていくのだと思う。
しっかり自分のものにしてる言葉の数なんてほんのわずか。 限りがあるにしても、探していく余地はまだまだある。 そうやって少しずつ良い文章が書けるようになりたいと思う。
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