あまつばめの雑記
こんばんは。いらっしゃいませ。

2002年02月24日(日) 生きると死ぬこと

こんばんは、あまつばめです。
地方局とNHK以外はラジオの入りが悪く困っております。
ニッポン放送と文化放送が聞きたい。
でも、耐えられないくらいにノイズがある。
何かいい方法がないのでしょうか?


生きる死ぬ意味について考えてみました。正確には思い起こしてみました。自殺、しようとした時のことです。

公共の場でそれについて書くべきか書かないべきが考えていました。
書くと
「オマエ、『私はこんなに傷ついているよ』って自慢したいだけじゃないのか?」
そう思われるのが嫌でした。
実際に傷ついていることを見せびらかしたい私もいます。そうやって、私は他人とは違うんだと思い込むためなのかもしれません。『傷ついている』『真剣に考えている』というポーズをとりたいのかもしれません。
それらについて否定はしません。ある種の事実です。

でも、本音は楽になりたい気持ちなのです。
3年以上持ちつづけて、誰にも言っていなかったこと。自分の中で結論を出ていること。誰かに判断してもらって一区切りしたいのです。

前置きが長くなりましたが、それでも判断してくださるなら、どうぞ。




<1998年6月某日(土)AM8:00頃 横浜市栄区にて>

死のうと思っていた。

仕事も休みがちになり、日常生活もままならなくなっていた。

汚い4畳半が私にとっての世界であり、ラジオとテレビだけがコミュニケーションの相手。
食事は乾麺と缶詰。買い置きの2リットルペットボトル。
乾いたままのパスタと、缶詰入りのトマトやコーンを少しかじる。味なんかわからない。
3日かけて2リットルを空にする。汗で流れ出る分だけ。排尿は日に1度か2度。それでも、十分すぎる。

日差しが眩しかった。
カーテンの隙間からこぼれる光は、4畳半の居場所をどんどん奪っていくようで嫌だった。
はやく夜になって欲しい。
このまま夜になって、ずっと夜のままで、灯りがなくなって、真っ暗な世界になってくれればいい。本気で思っていた。

うつ病というのは厄介なもので、何もやりたくないくせに、嫌なことばかりはどんどん考える。私はいらないもので、死んでしまえって声が聞こえて、なんで生きているのかと自縄自縛していた。


腐臭がしそうな部屋の中で、一つの結論が出た。

「死のう」

口にしてみた。
たった、3文字。残っている力を全部使って出した言葉。すごく重かった。


包丁を手に取る。
あいにく、この部屋の刃物はこれしかなかった。カッターナイフは職場だし、カミソリもT字ではドコも切れない。

両手で握る。
手首を切る気はない。小説やドラマなんかで切っているのはパフォーマンスみたいなもの。鋭いカミソリで動脈をしっかり切って、傷口を水にでもつけないかぎり確実には死ねない。私は死にたいのであってそれ以外したくはない。苦しむとか痛いとかはどうでもよくって、ただ、確実に死にたかった。

ノドを突き刺すつもりだった。
ノドに当て、前のめりに倒れて、そのまま突き刺す。
首の骨まで刃が刺されば確実だし、ノドが血まみれになって呼吸ができなくなるのもいい。とにかく、手首より確実だろう。
立ち上がって、刃を近づけていったとき、視線が刃先に行った。
尖った鋭いそれは、狙いがつけられないほど揺れていた。

どこかまともに感情が働いているところがあって、怖いとか痛いとか嫌だとか死にたくないとか考えていたかもしれない。ロクに食事も運動も睡眠もとらなかったから体が弱っていただけかもしれない。
どちらが本当かは知らない。
でも、ふるえた刃先を見て、体が動かなくなった。


「どうして死のうと思ったの?」
理由なんかない。生きていくのが嫌になった。

「生きているって何?」
残酷なこと。他の生き物を殺して笑いながら食べること。

「食べることはいけないことなの?」
生きていく上で必要だけど、そのことに何も感じなくなるのが耐え切れないの。

「今、感じているからいいじゃないの?」
ちがう。そうじゃない。いや、それもちがう。わからない。

「わからないなら、わかるまで何とかしなさい」
じゃあ、生きろって言うの?そんなに残酷なことを言うの?

「言わないよ。自分で考えな」
・・・・・・・・・


延々と自問自答をしていました。
刃先だけに意識を集中して、その揺れが質問で、泣いているのが答えで。
長いのか、短いのか、時間なんかわからなくなって、ずっとは先を見つめていました。



<PM7:30>
気がつくと畳の上で横になっていました。
気を失ったのか疲れて横になったのかは判断できなかったけど、左手に残っていた包丁が確かに死のうと思った証でした。
外は暗くなっていて、太陽とは違う街頭の灯りが差し込んでいました。
時計の針は7時30分を少し過ぎていました。
じっと手の中のものを見て、死にぞこなったんだと思いました。
何気なく、テレビをつけてみると、バラエティー番組がやっていました。その時は気づかなかったけど、日曜の番組です。刃先を見ていたのと倒れていたので1日半使っていたのでした。
テレビから流れる笑い声に、なぜか涙が出てしまいました。
悔しいのか、羨ましいのか、なんか吹っ切れたのか。
空っぽのまま笑って、そして泣きました。
番組が終わりました。まだ持っていた包丁を、近くにあったタオルでグルグルに巻いて、さらに紐で縛って、押し入れの中に放り投げました。
部屋中のゴミを袋に詰め、世界のいらないものをまとめてベランダに置きました。
何日?いえ、何ヶ月ぶりにかまともに食事がしたい気持ちになりました。とにかく何か食べたくなって、近所のコンビニに行きました。5〜6人前ぐらいの食べ物と飲み物を買って、部屋に持って帰り食べました。胃が受け付けず、何度も吐きそうになりながら、それでも1晩かけて食べきりました。


このときまから『死ぬ』と言う考えが消えていました。
『何もしたくない』『何もできない』という考えは消えませんでしたが、『生き延びてやろう』と考えるようになりました。
もっとも、この後まともに生活できないことを自覚して、実家(静岡)に戻りました。


死んでやろうと思ったとき、それはすごくずるい考えだと知りました。
生きていることはたくさんの生き物を殺して、たくさんの生き物に迷惑をかけています。
それを、私の命だからって勝手に死ぬのは、殺して迷惑をかけてきたすべてのものを否定すること、苦しんでいるならもっと苦しまなくてはいけないことを知りました。


生きるのはすごく楽しいことでもあり、すごく苦しむこと。
死ぬのはそこで勝手に満足して今までを全部捨て去ること。


私自身の考えはこんな感じです。

他人が「死にたい」と口にすると頭にきます。
「そこで全部捨てるって言うなら、私が全部引き受けてやる。背中を押してやる。私が『殺す』けど、かわりに苦しんでやる。絶対に自殺だけはさせない」
「生きろ」とは言いません。その言葉の残酷さに責任は持てませんから。


生きている以上、私は苦しみつづけるマゾヒストですよ。たぶん。


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