ふつうっぽい日記
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2016年09月01日(木) |
「その時、新聞を上下逆に持っていた」 |
「劇」と言われて、たまに思い出されること。
「お父さんも劇で、お父さんの役をしたことがある。 その時、新聞を上下逆に持っていたよ」
私が演劇部に入ることを父に言った時かなにかに聴いた記憶。 父親役を学生時代の学芸会かなにかでやった時のことを思い出したのかもしれない。
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小学校の時のクラス劇。 当時の担任は、昨年末に亡くなられた。 その劇で、私は浴衣のような着物を着て、「村の子ども達」の一人をやった。 台詞はなかったが、歌を歌っていた。 幕間の繋ぎの部分で、オルガンの演奏に合わせて歌っていたのだ。
「なめた なめた なめたよ 和尚さんが なめたよ あまい おさとうを なめてるよ」
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高校時代の演劇部では、思春期ということもあって、最初から最後までドラマティックであったなぁと思い出される。 調子にのっていた時代ともいえる。 自己中心的真っ盛り。 にもかかわらず、「部長」という役としてもなんとか頑張った。 「次期の部長は欠点(赤点)がない人」という前任者からの条件で、それを満たしたのは私だけだったのだ。 不思議なことに、間もなく私は欠点(赤点)を取ったのだが。 それほどに、演劇に取り憑かれていたのか?と言われると、やはり、そこは自己中心的真っ盛りゆえに、そうとも言えない。 恋愛にも頑張った(?)時期でもあった。 時代が時代だったので、今の時代とは違う「付き合い」方の内容だった。 いろいろと「憧れ」との葛藤で、希薄になった人間関係もあった。
高校演劇部の人たちは結婚式には呼ばなかった。 それにはいくつか理由があった。
一つは「結婚披露宴は、おわかれ会(送別会)なんだよ」と尊敬していた上司が言ったのだ。
たしかに、私は九州から関西へ嫁ぐという移動を伴ったものであったから、「お別れ」をせねばならなかった。高校演劇部の人たちとは、浅くても永く付き合っていたかったのだ。
二つは、数的バランスである。 私にとっては、地元の九州ということで身近な人たちといっても、結構な数がいたのだ。 一方、夫側は関西。 関西から呼ぶのは限られていたし。 10人くらいは、やむなく削らざるをえなかった。
今だったら、バランスはちょっと横に置いて、希望を優先させていたかもしれない。
「その後どうするか」によるのだ。
大学の演劇部の人たちは、呼んだとも言えるが、同時にクラスメイトであった。 先輩や短期大学部の人は呼んでいないので、やはり、「演劇部の人たち」という括りでは、後回しになっていた。 「お別れ」したくない人たちともいえた。
「その後どうするか」によるのだ。
今となり、先輩や短期大学部の人とは深い親交が保たれている。
今だったら、家族だけ、親族だけの式や披露宴にしたかもしれない。(どっちなんだ)
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あちら側に行ってみたり、こちら側に行ってみたり。 人間は常に揺れているのだ。 上に行ったり、下に行ったり。
下に向けて、切り取られることもある。 それがドラマだ。 「劇」だ。
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