ふつうっぽい日記
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2016年08月04日(木) 知識って。

ある本を読んでいて、「知識」について巡らせたくなった。

「知識」といえば、思い出すのは「研修」である。
ある新しい仕事をする時に、「研修」があると心強いものである。
ところが、それがないという場合もありうる。
そういう場合は、自分でなんとかして「知識」的なものを得ようとすることになる。
本を読んでみたり、講習会に参加してみたり。

またこうも思ってしまうかもしれない。
「研修」の機会を与えられない状況への不満。
機会があったらあったで、その内容についての不満が多分出てくる。
もっと、実地に相応しい内容がいいのに、とか。

支援員時代を思い出してみる。
「研修」というものは、なかった。
そこで、現場の職員に私は「研修を受けたい」と申し出た。
結果、学内の研修に参加することができた。
恵まれている例かもしれない。
「学内の研修」は、なんだかの形であるものだと思いたいが、それが外部からの支援者には閉ざされている、ということもありうるのだ。
「必要」ではなかろう、という考え方ではないと思いたい。

与えられない場合は、やはり、自分から動くしかないのである。
経験を糧に、それらがいったいどういう状況なのかというのを本を読んだり、講習会に参加してどうにか結びつける作業が必要だ。
必要というか、そう考える思いが増大する、という感じの。

また、「知識」的なものの「覚え方」にも、人それぞれ違う。
「与えられた」「受け身的な」知識は、通り過ぎていってしまうことがありうる。
どのタイミングで何を与えられるか、与えるかというのがポイントだ。
ずれてしまうのは、どうしようもないこと。

そして、それら「知識」を持っていることで、人それぞれ「何」が起動されるのかも違ってくる。
頻度だって違う。
頻度が重なれば、いちいち「知識」として引き出されるなんてこと、意識されることも少なくなってくる。

「知っている」ということ。
それは人それぞれ。

でも、「経験」に裏打ちされた「知識」は、頼もしい。

だから、一様に「知識」と言われても、平等ではないのだ。
だからある人にとって、「研修」が、とても「知識」に満ち満ちたものであることが、また、ある人にとっては「退屈」に思われることだってあるのだ。「同じ」「経験」の場にいたとしても。

「知りたい」は、自分から動き出すことである。
好奇心を忘れないで過ごしていこう。


KAZU |MAIL