ふつうっぽい日記
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ある本を読んでいて、「知識」について巡らせたくなった。
「知識」といえば、思い出すのは「研修」である。 ある新しい仕事をする時に、「研修」があると心強いものである。 ところが、それがないという場合もありうる。 そういう場合は、自分でなんとかして「知識」的なものを得ようとすることになる。 本を読んでみたり、講習会に参加してみたり。
またこうも思ってしまうかもしれない。 「研修」の機会を与えられない状況への不満。 機会があったらあったで、その内容についての不満が多分出てくる。 もっと、実地に相応しい内容がいいのに、とか。
支援員時代を思い出してみる。 「研修」というものは、なかった。 そこで、現場の職員に私は「研修を受けたい」と申し出た。 結果、学内の研修に参加することができた。 恵まれている例かもしれない。 「学内の研修」は、なんだかの形であるものだと思いたいが、それが外部からの支援者には閉ざされている、ということもありうるのだ。 「必要」ではなかろう、という考え方ではないと思いたい。
与えられない場合は、やはり、自分から動くしかないのである。 経験を糧に、それらがいったいどういう状況なのかというのを本を読んだり、講習会に参加してどうにか結びつける作業が必要だ。 必要というか、そう考える思いが増大する、という感じの。
また、「知識」的なものの「覚え方」にも、人それぞれ違う。 「与えられた」「受け身的な」知識は、通り過ぎていってしまうことがありうる。 どのタイミングで何を与えられるか、与えるかというのがポイントだ。 ずれてしまうのは、どうしようもないこと。
そして、それら「知識」を持っていることで、人それぞれ「何」が起動されるのかも違ってくる。 頻度だって違う。 頻度が重なれば、いちいち「知識」として引き出されるなんてこと、意識されることも少なくなってくる。
「知っている」ということ。 それは人それぞれ。
でも、「経験」に裏打ちされた「知識」は、頼もしい。
だから、一様に「知識」と言われても、平等ではないのだ。 だからある人にとって、「研修」が、とても「知識」に満ち満ちたものであることが、また、ある人にとっては「退屈」に思われることだってあるのだ。「同じ」「経験」の場にいたとしても。
「知りたい」は、自分から動き出すことである。 好奇心を忘れないで過ごしていこう。
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