- 2004年07月26日(月) 煙草について(苦
(真夜中っていうか明け方に書き込みするのは止めなさい>自分)
煙草って、なんで「特別扱い」されているんだろう?
厚労省が「煙草よりも大麻のほうが害が少ないという『誤った情報』が流れているが」などと言っている。
わたしから見れば、ほんと、五十歩百歩だよ〜〜〜。
アメリカ征服、とか。
産業革命の進展、とか。
そういうものの象徴だから、毒性も依存性も仕方ないんだよ、きっと。
受け入れてあげようよ。
……なんて、ムリに考えても白々しくなるだけ。
わたしの目の前で煙草を吸う人がいる。
でも、残念なことに、そういう人とは30分以上一緒にいられない。
だって、副流煙吸ってしまうと、すぐにむせちゃう、頭痛くなる、目がしょぼしょぼしてくる。
頭がぼぉっとしてきて、正常な思考判断能力が維持できず、とにかくその場から逃げ出したくなってしまうのだ。
かなり重症。
いちいち「わたしの近くで喫煙しないで」って、言いたくないし、言えない相手だっているんだもん。
でも、確実に、わたしは自分のすぐそばで喫煙する人のことが、嫌いになってしまう。
他のことでは思いやりがあったり礼儀を心得ていたりするんだけど、こと喫煙のことになるとその人の美点がぜーーーーーーんぶすっ飛んでしまうの。
喫煙者の「喫煙を止めない理由」も、誰から何度聞いても同じようなことしか聞けない。
その言い訳が、自分で考えたことではなく煙草の(特にニコチンの)神経作用で思い込まされてるだけ、というのがまざまざ見えて、すっっっっっっごくがっかり。
そう、あなたは喫煙についてだけは自由がないのね。
自分では「自由だ」と思い込んでるみたいだけど。
煙草は確かに、アメリカ先住民との接触から伝えられたものだし、喫煙者にとっては産業革命で大量に大気中に放出されるようになった内燃機関のガスがあんまり気にならなかっただろう、という点で産業革命そのものにも大きく貢献しているのだろう。
しかも、なくても誰も何も困らないはずなのに、資本的生産様式にのっとって大量生産し、無意味に(というよりも要するにニコチンの依存性によって)大量消費する、という点ではまるで「資本主義の教科書どおり」とでも言いたくなるようなものだ。
煙草は、いわば「歴史的意味のあるもの」なのだ。
でも、そろそろ考え直そうよ。
厚労省が「大麻より害がない」という比べ方をするのを、まず止めてほしい。
害の質が違うんだから、比べるな。
JTも、煙草で収入を得ようとするのを止めなよ。
何度も言ってるけど、煙草はアメリカ先住民の神聖な儀式で使うもの。
それを理解できる人だけが、自分自身も神聖な気持ちをもって喫煙する、というようなものに変えていこうよ。
それか、とても高級で、自滅覚悟の趣味、とか。
(20本入りの煙草1箱の値段がたった数百円なんて、ひどいと思う。喫煙者や受動喫煙者が負わなくてはならないリスクを考えたら、マイルドセブンなんかでも数千円は必要だと思う。ついでに、その利益を肺癌治療に充てるとか)
……でも、わかってるの。
突然煙草を非合法化したら、とんでもない社会不安が発生して、たぶんこの日本であっても暴動くらいの騒ぎにはなってしまうだろう、ということが。
それは、それこそまさしく煙草の危険性(特に依存性)をまざまざと示すものなのだろうけれど、暴れたい気持ちを煙草抜きで冷静に抑えられる人なんて、この世に何人いることやら。
(だから、喫煙撲滅に21世紀の100年間を全部かけたらいい、と思っている……前に書いて、今はめんどうだからそこまでは繰り返さないけど)
わたしは、行く先で煙草が、と思うと、外に出たくなくなってしまう。
家の中では煙草の臭いが絶対にしないので、よけいにあの臭いで服や髪の毛が臭くなってしまうのが耐えられなくなってしまう。
……って、こうやってしつこく「煙害」を言い立てるわたしの思考回路のどこかに、たぶんわたし自身が過去に喫煙者だったり、今も時々受動喫煙させられてしまうことからくる「ニコチン回路」があるのだろう。
つまり、わたし自身がたぶんある種の「ヤニ切れ」状態なのよ。
それも怖い。
わたし自身もニコチンという化学物質から今もまだ自由じゃないのかもしれない、と思うと。
人は誰でも「完全な自由」を手に入れることはできない。
それはわかっている。
けれども、少なくともわたしには、喫煙という手かせ足かせはいらない。
煙草からは、自由でいたい。
そんなもののせいで、人と争いたくもない。