原案帳#20(since 1973-) by会津里花
★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲

2004年02月12日(木) わたしにできること

★1・わたしにできること



★1・わたしにできること
  (それはわたしがかつて被害者だったということを自覚すること)


わたしにできることはなんだろう。

歌うこと。
GIDの活動をすること。
英語を教えること。
愛すること。
……

というのは、前に書いたっけ。
今わたしが問題にしているのは、「被害者」「加害者」としての話。
わたしがしょっちゅうごっちゃにして苦しんでしまうのは、
「わたしは被害者だったけど加害者に転化してしまった」ということ。
わたしにとって「同じ根っこ」「地続き」と感じてしまっているのだけれど、どうもそれは危険なことらしい。

わたしは自分の被害に無自覚だったとき、加害者に転化してしまった。
でも、自分の被害に気付いてからは、たぶん攻撃的なところはずっと減ってきたと思う。
……いや、攻撃性は変わらないのかもしれないけれど、それを他人に向けることが少なくなってきた、と思う。

で。
他人から攻撃されたり、攻撃的な言動を見たり聞いたりしてしまうと、わたしは怯える。
怯えると、余裕がなくなって、どうやらそれでまた自分の攻撃性がコントロールできなくなるようなのだ。

そして、それについて思うこと。
きっと、そういうときには自分が被害者だった、ということを忘れてしまっているのではないか。
わたしは、自分が被害者だった、ということを、もっとちゃんと受け止めなくてはいけないのではないだろうか。

今までは、それが「悲劇のヒロインの真似」だと思っていた。
けれど、わたしはむしろ加害者になってしまった、ということのほうがずっと「悲劇性」が強いような気がしてきた。
「加害者ぶる」ことのほうがよっぽど「悲劇のヒロイン」っぽいのでは?

自分を悪者に仕立て上げて、誰からも非難されるわたし。
誰にもわかってもらえず、一人っきりで苦しむわたし。
苦しみの結果として他人との関係性がうまくいかなくて、でもそれについても誰もわかってはくれず、
ただただ「おかしなやつ」とだけ思われているわたし。

それこそが醜悪な「悲劇のヒロインの真似」なのでは?

わたしは、自分が加害者だったということと、被害者だったということを、はっきり分けてしまおうと思う。
それはもしかしたら、今までずっと、その二つをくっつけてセットにして考えてきたからこそ
できることなのかもしれない。

でも、もういい。
わたしは自分の被害を嘆く。悲しむ。加害者を憎む。
そうして、そのことによってはじめて、わたしは自分自身が再び加害者になってしまわないよう、
自分を適切にコントロールできるようになるのだ。

わたしは、過去の自分、
……それはわたしにとっては「男のフリをしていた頃の自分」ということに他ならないのだけど……
加害者だった自分を憎む。
自分も被害者であったことに無自覚なまま、
自分がされたのと同じようなことを他人に対してさんざんやってしまった。
わたしは、そういう自分を許さない。できれば一切なかったことにして、葬り去ってしまいたい。
でも、それが過去の自分なのは事実。

わたしにできること。
それは、被害を忘れて過去の自分のように加害してしまう人間に堕落することを、
常に引き止めておくことだ。

この記事のトップへ
ページのトップへ


★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲