- 2003年10月16日(木) 原罪 他
こんな記事をみつけた。
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地球は宇宙に浮かぶエデンの園。原罪とは、人と人が愛し合うことではなく、本来、生存に必要な獲物を狩るために発明工夫した殺 傷具を、同族である人間に対して使いはじめたことだと、アメリカ先住民の口承は伝える。その誤った使い方を当然視し、どこまでも 極大化する未熟で野蛮な現状は、かならず卒業できる。卒業は、人の命を等価と見ない差別観と、殺し合いを拒否する人の数が臨界点 に達したとき起こるだろう。その鍵となるのが、メディアという学習ツールの正しい活用なのだ。
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確かに、性愛を罪悪視するような考え方は、どこか歪んでいるようで、不健康な印象を拭い去ることができない。
旧約聖書が本当にそういう意味で記されているのかどうか、大いに疑問だし、もしも確かにそうだとしたら、 創世記が記述された時代にいったいどんな問題があって神さまの言葉を歪めてしまったのか知りたい。
殺し合いをしてしまうのは、生き物としての人間の本性なのかもしれない。
霊長類、更に絞って類人猿とヒトだけ見ても、争いが昂じて本当の殺し合いになってしまうことはままある。
(そういうことの調整が上手にできなくなってきているようにも見える……「進化」すればするほど下手になっていくように見える)
でもさー……
殺しあうなら素手でやれ!
わたしはそれ以外の方法は認めないぞ!
そうして、それが最も凄惨で残酷な「殺し」であるようにも思える。
おそらく、殺した者は自分が犯した罪からくる呪いから、一生逃れることはできないだろう。
自分の手の中で死んでいく者の、命が尽きる瞬間の感触を、いつまでも忘れることができなくなるだろう。
それでいい。
殺してしまった罪を、死ぬまで後悔すればいい。
決して正当化なんかできずに苦しむべきだ。
「戦争」という、なまじ高度な道具を使うことが許されているかのような「殺し」では、 自分が犯した罪を自分の手で感じることを回避するのに高度な技術が使われている。
広島で何万人も殺しておいて「上陸戦になるよりもましだった」としゃあしゃあと言い抜けることができるのは、 自分の手でその何万人を直接殺したのではなく、ボタンを押して爆弾を投下する、というだけの行為で済ませることができたからだ。
(もちろん、卑怯なアメリカ人は「自分たちの兵士がたくさん殺されるのを回避することができた」からこそ、原爆投下を「上陸戦よりもましだった」と言っているのだけど。
よく「地上戦でもっと多くの日本人が殺されるのを回避できた」とか言っているが、それはすり替えだ。
NHKで「オレが地上戦で死んでいたら息子も孫もこの世には存在しないんだぞ」と言ってるアメリカ人がいるのをこの目で見た。
わたしはそれを一生忘れないだろう)
同じだけの人数を、自分の手で相手の首を絞めて殺してみろ。
アメリカ人は決して今みたいに自分の「殺し」を正当化できないだろうし、 もちろんイラクやイスラエルで我が物顔に振舞うこともできないだろう。
その意味ではナチスドイツのほうがまだましなくらいだ。
大量虐殺の咎によって、もうこの世に存在していないのだから。
(一瞬にして何万人も殺すという過ちを2度も犯している国は滅びるべき……? そこまでは思わないが)
「殺す」ということの意味を、もっと自分自身のこととして考え、恐れと慎みをもってそれを回避する術を見出してほしい。
わたしの好きな音楽のある国の政治が、わたしにとって最も忌み嫌うべきことをやっているという今の状態を、 早く抜け出してほしい。
(そういえば、いかにも「銃国家アメリカならでは」という感じの映画がよく日本でも流行ったりするけれど、わたしにはそれも楽しむことができない。
いかにも「日本人のみなさーん! 銃を使うって、こんなに楽しいことなんですよー!
いつまでも『銃フォビア』になんかなってないで、日本でも銃の使用を認めるようにすればいいじゃないですかー!
自分の身を守るために、過剰防衛なんて言わずに銃で殺すことを認めましょうよー!」と言っているような映画は、
楽しむ以前にげんなりしてしまう)> わたしの好きな音楽のある国の政治が、わたしにとって最も忌み嫌うべきことをやっているという今の状態を、 早く抜け出してほしい。
と書いたけど、わたしの好きな音楽をやっている人たちは、アメリカの「殺し」のことをどう思っているのだろうか。
John Lennonは反戦を説く歌を歌ってから何年もの間、音楽活動を禁じられていた。
(「それは事実ではない」と言う人もいるだろうけれど、あんがいこれが真相なのではないか)
音楽は平和の味方ではあっても、戦争の味方にはなれないと思う。
たとえそこにどんな「正義」があろうとも。
第2次世界大戦で多くのミュージシャンたちが戦火に散っていった。
行方不明になったグレン・ミラーなど、それ自体が有名なほどだ。
その荒廃の中から生まれたBe-Bopを、わたしは尊敬するし心から楽しむ。ノッちゃう。
白人から差別されていた黒人の中から生まれ育ったBluesが好きだ。
差別されているからこそ、言葉ではなく「歌」なのだ。
John Lennonが言った
「言葉はコミュニケーションの劣った手段だ。ロックンロールのほうがまだましだ」
という言葉とBluesの在り方は、どこか重なる。
だからわたしはThe Beatlesが好き……かどうかよくわからないが。
(っていうか、わたしがビートルズ好きなのは理屈なんて関係ないので、それはどうでもいいんだけど、 強いて分析するとそういうことになるのかなあ、ということで)
わたしは、自分が「差別される側の人間」だ、と小さい頃からずっと思っていた。
はっきり言って、理由はぜんぜんわからない。
もしかしたら、両親や世間が「オカマ」を差別しているのを見ながら、 その一方でわたしが本質的にはそう呼ばれる人たちと変わらない、ということに気付いていたからなのかもしれない。
だから、差別される人たちに、すごく強いシンパシー(sympathy;共感)を感じてしまうのだ。
外見的に「差別する側」だったわたしは、自分が差別される側にいることを露にしてしまうことをとても恐れていた。
なぜなら、自分自身が被差別者に対してとても冷酷な軽蔑、差別意識をもっているのを感じていたから。
自分が同じように思われるのは絶対にいやだ、と思っていた。
唯一差別される側の気持ちを共有できるのが、「音楽」だった。
音楽は、差別しない。
それがたとえ被差別者から出てくるものだったとしても、すばらしいものはそういうことを超越して愛される。
わたしも、できるものならそうありたかった。
差別される者だけれど、それを乗り越えて愛されたかった。
今、不思議なことにわたしは「トランスセクシュアル(性転換者)」として、差別されていると感じることがほとんどない。
(っていうか差別されそうな環境には近寄らないからかもしれない。会社に就職するとかしないのもそれでだろう。
企業社会は異常なほどどっぷり差別してしまう環境だと思う)
まあ、それとは別に「元DV加害者」ということでひどい偏見や差別にさらされているらしい、ということは感じるようになったし、 そう感じても生きていられるほど強くなってきたようだとも思うけど。
どんなに差別されても、音楽だけは関係ない。
むしろ、差別される人たち、主流でないもの、辺境にあるもの、そういうところからこそ、音楽は素晴らしいものが生まれてくる。
今「島唄(ってThe Boomのだけじゃなくて広い意味で)」がそこそこ流行っているのもそうだと思うし、 日本で洋楽が流行ること自体がそれと同じような構造から来ているとも思うし。
……とかとりとめないこと書いてるうちに、友だちから電話があって出かけることになった。
たぶん、帰ってからこの続きを書くことはないだろう。
なので、このへんで。
(っていうか、どこで切ってもいい内容だしね)