- 2003年04月30日(水) 『三人姉妹』エピソード
★1・『三人姉妹』二日目まで終えて
★2・↑読んだら
★3・ファンタジーは不毛じゃないよ!
★1・『三人姉妹』ようやく二日目まで終了(ジェンダー系エピソード)今回『三人姉妹』で、私は女役と男役を二役やっている。
で、今回の「らせん劇場」の公演は、基本的に「リアルに演じる」ということなので、
私のそういう「二役」は、ちょっとした波紋を投げかけているところがあるようだ。
終演後に会場の出口まで出て、お客様をお見送りするのだけれど、
初日に一人、二日目に一人、私に声をかけてきた人(たち)がいた。
いずれも若い人たちだった。
聞かれたのはいずれも「本当は(男女の)どっちなんですか?」ということだった。
たぶん、最初のほうの「女役」(メイドさん)はそれなりに女らしく見え、
後でメイクも衣装もすっかり替えて出てくる「男役」(大道芸人)もそれなりに男らしく見えるのだろう。
実際、自分で鏡見てて、男役の顔、「カッコイイ」と思ったもん(^^;
(↓ケータイで撮った大道芸人のメイクをした私)
思春期にさしかかるくらいの男の子が、特に興味を持って、というか
強い疑念を持って私にかなりしつこく聞いてきた。
けれど、それも悪いことではないと思った。
私は「そういうふうに疑問をもつことが大切なんだよ」と答えた。
ただ、その場では時間がなくて、その子の疑問を解いてあげることはできなかった。
仕方がないので、「次の公演にも来てくれたら、ゆっくり教えてあげる」と答えたけれど、
それって大人特有の「ずるさ」かもしれない。
まあ、でも、その子が疑問を持ち帰ってあちこちに聞いてまわり、
どの程度まともな答えを得ることができるか、それが楽しみでもあり、不安でもある。
……ちょっと不安が強くなってきちゃった(;_;)……
……私の地元にはそういうことにまともに答えられる人=主に教師、がどれほどいるか、ちょっと心配。
性教育に真剣に取り組んでいる先生たちとその全国組織が存在することは知っているので、
その活動に関わったり恩恵にあずかったりしている先生がこの地(またはその子の通う学校)にもいてくれることを願うばかり……
もしもその子がまともな答えを得られず、逆にとんでもない偏見を植え付けられてしまうとしたら、
それはとても悲惨なことになってしまう。
かつての私と同じように、解けてしまえばぜんぜんくだらないとしか思えないような差別意識を
わざわざ大人から植え付けられるとしたら、その子にとってどれほど大きな損害だろう!
ジェンダーの問題に限らず、子どもの疑問は純粋だ。
それに対して、大人が文化としての「差別」「偏見」を教えてしまうのは、
なんとしても食い止めなくてはならないことなのだ。
私自身にも、とても嫌な、今でもこびりついている「差別」「偏見」がある。
私の頭の片隅には、今でも「朝鮮人」という言い方に、何か汚いものででもあるかのような感覚が残っている。
悔しいけれど、それを意識して、それから改めて
「いやいやそうじゃなくて」とその感覚を振り払うようにしているところがあるのだ。
私はそれを、父親から強く教え込まれた。
とても口に出しては言えないような呼び方で。
私はそれが悔しい。私の心に強い差別意識を植え付けた父親が憎い。
いつもいつもそれを意識しては振り払うという苦しみをもたされていることが辛い。
「差別」「偏見」は、無知と恐怖から成り立っている。
よくわからないから本当は怖いのだけれど、
「あんなものを怖がるのはどうかしている」というくだらない矜持から、
そういう相手をあえて「見下し」「排除し」「劣ったものとして扱う」。
ある意味、「差別」「偏見」は、大人の「無知」と「恐怖」を子どもに押し付けることだ、と思う。
そういうものが一切なくなる時代なんて、ないのかもしれない。
けれど、「無知からくる恐怖」なんて、正しい知識(あるいは認知)を教えられれば
解けてしまうものなのだ。
「昔の暗かった時代」をあえて子どもに押し付けて
「世の中はおまえの目に見えているほど明るくはないんだ。暗くて醜い現実を思い知れ」
とでもいうような「教育」を施すのは、私にはあまりにもおろかなこと、と見えてしまう。
いつか「地球外生命」と遭遇したときに、地球人がその人たちに対して
「野蛮」としか言いようのない敵対行為をとらないためにも、
「差別・偏見を解く」ということは重要なことなのだと思う。
あはは。
話が広がりすぎた。
これじゃまるで、私が「地球外生命」みたいじゃん(-_-;
でも、「私はこの宇宙で一人っきり」という感覚も、
教えられたのか生まれつきなのかわからないけれど、
小さな頃からずっと持っているものだ。
もしかしたら、それを思い起こしてしまったのかもしれない。
まあ、今は昔よりも少ーし、その感覚に惑わされることが減っているとは思うけれど。
女に戻って強くなってきた自分が、ちょっと頼もしい……かな?
まあ、よくわからないけど。なんだかロシア軍人たちの「哲学」に似ているような気がする。
(「ロシア軍人たち」=『三人姉妹』に出てきている)
100年前のロシアの社会を、どうすれば変えることができるか、
当時「より進んだ」西ヨーロッパ諸国の社会を見て、
インテリゲンチャを中心とした知識・教養のある人たちはさぞかしもどかしい思いだっただろう。
それで、現実の自分から離れてでも「なんとかしたい」という思いに適うような「理屈」を
めいめいがひねり出していたのだろう。
実は自分の立っているところを離れてしまった時点で「不毛」なんだけど、
そうせずにはいられない気持ちはよくわかる。
私も、たとえ「不毛」であったとしても、気持ちがやすらぐもの、希望を持てるもの、
大好きだから。
そういうものを「ファンタジー」と呼び、ファンタジーなしには人は生きられないと思う。あれあれ、なんでかなあ。
記事を一つ書くたびに、それについて自分で答えたくて仕方ないようになってしまう。
今の私、二日間3回のステージを体験して(ゲネプロまで入れたら5回!)、
「むしょうに語りたい気分なんです」(^^;
で。
人はファンタジーなしでは生きられない。
他の動物が、主に本能を生きるよりどころとしているようには、人間は生きられない。
本能の代わりに「生きるよりどころ」とするのは、「目の前の現実だ」という人もいるだろうけれど、
その「現実」でさえ、人間は何かしら「空想的な要素」なしには受け止めることができないのだ。
その最たるものは「言葉」だ。
言葉に実体はない。
それは、言語によって何をなんと名づけるかがてんでバラバラであることからも容易にわかること。
むろん「言語以外の直感でものごとを捉える」ということも、現実にはある。
しかし、それに対して何らかのアクションを起こすとき、人は必ず言語に頼る。
生理的欲求に対してですら、そういうことになっている。
(尿意を催せば、なんとなくではあれ「(日本語で)トイレ(とか便所とか)」というところに行く。
もしもその概念=言葉がなければ、人間は自分の排泄物の管理すらできないだろう)
言葉によって表される全てのことがらは、言葉になっているというまさにその事実によって
空想的な要素、すなわち「ファンタジー」をまとって、人間の認識に受け入れられていくのだ。
ファンタジーによってしか、人は現実を受け止めることができない。
そのことのどこが「不毛」なもんか。
ファンタジーこそがリアルなのだ。
たとえそれが、最初から最後まで、誰かの頭の中で組み立てられたものでしかなかったとしても、
それによって人の思いが成り立っているのだとしたら。
もしかしたら、「なんでもかんでもファンタジーにしてしまう」というのは、
それこそが人間の「本能」なのかもしれない。
唯一正常に機能しているのか、たがが外れて暴走しているのか、それは私にもわからないけど。