samahani
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2002年09月11日(水) |
「9.11」 我が家の場合 |
9月11日、朝から各ニュース・チャンネルは、テロ一周年の特集番組を放送している。封印されていた、旅客機がWTCに突っ込んでいく場面も、流されていた。
子どもたちの通う、中学校と高校でも、朝8時46分に黙祷の時間が持たれたそうだ。
一年前のきょうも、青い空がどこまでもつづく秋晴れの日だった。 9時過ぎ、近所に住むKさんが、「大変なことになってるからテレビを点けてみて」と電話をくれた。 言われる通り、テレビを点けてみたが、なんだか凄いことになっているなと漠然と思うだけで、何も実感が湧いてこなかった。
窓の外には、緑の木々が風に揺れ、小鳥がさえずり、蒼い空がまぶしい のどかな風景が広がっていた。テレビには煙を上げるペンタゴンも映っていたけれど、それが本当にこの空のすぐ近くに繋がっているあの場所なのかという思いだった。
「学校も早帰りになるかもしれないから、家で待機していてね」とKさんに言われたけれど、わたしは、待っているより、学校に行ってみようと思った。
息子が心配だからというより、突然の停電などの非常事態に、なんだかワクワクしてしまう子どものような心境だった。わたしが、へらへらとした顔で学校に行くと、何人かのおかあさんも、子どもをお迎えに来ていた。みんなには いつもの笑顔はなく、特に、息子の担任の男の先生が悲痛で沈痛な面持ちでいたのを見て、わたしは、自分自身の不謹慎さを恥じた。
あまりに大きな惨事には、実感が湧かないものなのか、単に、わたしの想像力の欠如が原因なのか分からない。日本に居れば、これでもかというくらい多くの情報がメディアを通して入ってきて、わたしも、ここに住んでいるより、情報も知識もあり、感情的にもなったのかもしれない。
けれど、わたしの「9.11」は、それだけでは終らなかった。
9月下旬に予定されていた日本語学校の運動会が中止になり、教室での通常授業に振替られた土曜日、わたしは安全当番で校舎の廊下にいた。その日、日本のテレビ局(テレビ朝日)が、学校に取材に来ていた。その取材班に捕まってしまったのである。
わたしは、取材される意思は全くなかった。この事件に関して、実感も湧かないのだから、言いたいことなど何もないし、分からないことに対して、何かを、さも知ったかぶりして言うほど滑稽なことはない。けれど、テレビ局のインタビュアーはとても強引で、断っているわたしの前にマイクを突き出し、テレビカメラを回し始めた。
今でも恥ずかしいのだが、そうなると不思議なもので、何か喋らなければと思い、質問に答えたりしてしまうものなのである。(人がいいと言うか、意志薄弱と言うか・・・)
テレビ局には、初めから、「恐怖におびえ、心配でたまらない暮らしぶりをしてるワシントンDCの人々」を撮りたいという意図があった。わたしは、インタビューをされているうちに、相手のその意図に乗せられ、気持ちと全く反対のことを喋っていた。
そのとき、夫は、出張に行っていて留守だった。テロの3日後になって、「やっと繋がったよ」と言って、夫から電話があった。「そっちは大丈夫なの?」とアフガニスタンからそう遠くないところに居る夫を心配して訊ねると、「大丈夫だよ、でも後半の仕事はキャンセルになったから早く帰るかもしれない」と夫はこたえた。わたしは、その言葉をそのままに受け取ったので、そういう状況にありながらもまるで心配していなかったのだ。
けれど、インタビューでは 『やはり心配ですね。夫にも早く帰ってきて欲しいと思います』 なんて言っていたのである。 恐るべし、テレビマジック。インタビュアー、さすが、プロフェッショナル。 わたし、単なるど素人、しどろもどろ。 (とほほ)
このケースは、我が家の場合であって、必ずしも、皆が同じだった訳ではない。わたしのようにあまり心配していない人もいた反面、DCに住んでいては危険だという理由で、日本に帰ってしまった人もいたし、とても心配して一時的に帰ることを検討した人もいたからである。
あれから一年たった。
我が家は何も変わらず、帰国予定だった4年を過ぎてもまだここに居る。
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