samahani
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2002年04月22日(月) identity

ここDCで、日本人のおばあさんに会うことがあるのだが、なんだか妙に感動してしまう。きっと、アメリカ人のダンナさんと結婚してから、めったに日本に帰ることもなく、来た当時は、言葉のことも何もかもが新鮮だったなどという限度を超えて、カルチャーショックを受け、たくさん苦労をしてきたんだろうなあと勝手な想像をするからである。おばあさんの顔がこの国に同化してきているのを見ると、彼女の経てきた長い年月を感じる。

アメリカに永住する日本人は、他の国の人たち(中国、韓国など)に較べて、数が少ないせいか、または国民性なのか、チャイナタウン、コリアタウンのようなコミュニティーを作ることをしないのだそうだ。そこで、いろいろな所にばらばらに住んでいる永住の日本人(おもに老人)をサポートするため、ボランティアグループが活動している。いくら不自由なく英語も操れて、地域に溶け込んでいても、老人になってから、周りに日本人がいない環境というのはとても寂しいことらしい。

ボケ老人だとか、アルツハイマーだとか、記憶が不確かになった日本人の老人は、どんなに流暢な英語を喋っていても、それをすっぱりと忘れてしまって、日本語しか理解できなくなるのだそうだ。そういう時、アメリカ人のダンナさんと日本語の分からない子どもたちだけしか周りにいない環境だとお手上げ状態になってしまう。

片親が日本人であっても、アメリカ人(に限らないが)と結婚してアメリカに住んでいる人が、産まれた時から英語環境にいる子どもを、日本語も喋ることができるようにキープしていくのは容易なことではない。けれど、片言も日本語が喋れない孫に会った時、日本のおじいちゃん、おばあちゃんは言いようもなく寂しいんだろうなと、他人事ながら祖父母の気持ちを考えてしまう。

うちの子どもが、学校の友だちのおかあさんに話しかけられて、流暢な英語で何やらぺらぺらと応えたとき、横に居たわたしは、はぁ?いま、なんて言ったの?状態だった。子どもの英語が上達した喜びよりも、自分がコミュニケートの輪から疎外されている寂しさのほうが強かった。祖父母の気持ちもきっとこんな感じなのかなと思った。


わたしが初めて外国の地を踏んだのは、大学3年の夏休みに、Los Angeles近郊の町に1ヶ月のホームステイをした時だった。あの頃は、中学の基本単語くらいの語学力だったのに、ホストファミリーと辞書を引きながらいろいろな話をし、感動を英語で伝えたいと絵葉書に訳の分からない英語を書いて送り、受け取った人を悩ませ、ついには英語で夢を見る経験までした。英語で夢を見たのは後にも先にもこの時だけである。

その時、わたしは、浅はかにも、英語なんて簡単じゃーん、すぐペラペラになれちゃうよーなんて思ったものだ。いまでは、とてもそんな気持ちにはなれないけれど。

わたしが自分のことをpatriotだなんて言うのも、歳をとって、むかしにかえる老人に近いものがあるのだろうかとふと思ったりする。


さとこ |mail

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