2002年12月23日(月) |
20世紀は「わかる」が当然の時代だった。 |
20世紀は「わかる」が当然の時代だった。 自分はわからなくても、どこかに「正解」はある… 人はそのように思っていた。 すでにその「正解」はどこかにあるのだから、 恥ずかしいのだとしたら、その「正解」を 知らないでいることが恥ずかしいのであり、 「正解」が存在することを知らないでいることが 恥ずかしかったのである。 (略) どこかに「正解」があるはずなのだから、 それを教えてくれる「情報」を捕まえなければならない… そのような思い込みがあって、20世紀末の情報社会は 生まれるのだが、それがどれほど役に立つものかはわからない。 (略) 情報社会で何を手に入れられるかはわからないが、 情報社会の一員にならなければ、情報社会から脱落した 結果の孤独を味わわなければならない。
そもそもが「恥の社会」である日本に、 「自分の知らない“正解”がどこかにあるはず」という 20世紀病が重なってしまった。 その結果、「わからない=恥」は、日本社会に 抜きがたく確固としてしまったのである。
「わからない」という方法より 橋本治著
久しぶりに「なるほど」と思える本に出会った。 自分の中にある「わからない=恥」という感覚が 20世紀の流れの中で、知らずに身にしみつて来たのかもしれない。 もちろん、見栄っぱりの性格もあろうが…
わからないことが多すぎると、常々思っていて、 なかなかそれを口に出せない雰囲気がある。 わかったふりをしなければならない。 仕事においては特にそうだ。 わからないことは、能力のなさと思われるのだ。 協調性がないと思われるのだ。
しかし本当には、「全然わからない」のだ。 さらにいえば、本当は「わかりたくもない」のだ… けれど、流れに乗り遅れまい、 落ちこぼれないようにしよう、 知らないと思われたくないなどという意識から、 わかったふりをしているに過ぎない。
「わかる」までの時間もなく、 瞬間に「わかる」ことが評価される。 そんな世界に、私はどっぷりと浸かっている… どっか何か、違うと感じながら。
河合隼雄氏も言っているか、 「簡単に“わからない”能力は大切です」と。 本当にその通りだと、改めて思う。
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