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嫌いな食べ物「キュウリ」


2005年04月13日(水)

学校に通いつつ仕事をしつつ。
毎日少しずつでも問題集を解く日々。あー懐かしい。

時折考えるのは、私の中身は幾つかの液体で構成されていて(血液・リンパ液とかそういう話でなく)、その液体の比重が、過去完全に引き離れていたけれども、最近は比重が近付きつつあるのではないかということ。
青と赤の境がわからないというか、赤ばかり押し出すと青が消えてしまうのじゃぁないかというような、そんな不安に駆られることが良くある。私は今まで青を大事に生きてきて、そして培った次のような事象が、その不安の一部であって、例えば。

・青が重いために、長く青にさらされて青が染み付いた胃の底だとか、余りに通常の液体と違う比重によって不可侵な世界を構成していた青の存在だとか、そういったものが崩れて無くなるのじゃぁないか。
・青が無くなる不安に駆られて、波打った残りの青が、上に乗っている赤を押し上げて、結局のところ赤ばかり水面を揺らして私の内側を染めていく気がする。
・更に言うなら、私というものが大事にする青を、作る場所が今の私には無い(あるいはその場所が稼動できる状態に無い)のじゃぁないか。
・青の減少傾向が本当であるのか。

こんなことなのである。

青、とか、赤、とか表現するには、少しまた違うのだけれど、そして、別段青が何であって、赤が何であるというカテゴリ分けもきちんとされてはいないし言葉として当てはめるものは多分無いのだけれど、何か、私の中でそういった幾つかの違うものが、揺れ動いている中で、今まで大事にしていた何かが押しつぶされそうだ。

この話は現実にこれがあるからだとか、現在の環境がこうであるからだとか、そういった、私というものじゃないものたちによって引き起こされている問題ではないということは分かる。けれども未だ、私自身実態がつかめず、私の中にある(はずの)原因がつかめない。



逆に、例えば、他の誰かに、「これがある。あれがある。それもある。他に何が必要なの」とか「これが良くない。あれが良くない。それが良くない。こうしたら良いのじゃないか」とか、言われても見当外れだ。
これがあってあれがあってそれがあるからこうなるのはおかしいということは無いだろうし、これが悪くてあれが悪くてそれが悪いからこうなるというわけでも無かろう。
かんぜんに、かんぜんに、私の眼でも手でも、声でも届かないくらい奥深いところに、何かがあってそれで私は不安なのである。外気も知らない光も無いところの何かが変わりつつあるのだと思う。


そして、もっと大変なことに、この不安というのが、一枚の紙の端と端にマークを描いて、真中で折ってマークをあわせるように、中間点を無くして完全にくっついているものであるということだ。「なんでもない」と「おしつぶされる」の両極端の丁度はざまにいて、これがまた、「なんでもない」のか「おしつぶされる」のか、実際は分からない。
つまりここが今、どこに位置しているのか、それが一番わからないのだ。


さくま