嫌いな食べ物「キュウリ」
以前は良く、人を嫌っていた。私の考えと相反するものは、大抵私の憎悪の対象になってしまったし、今から考えるなら、多分、当時の私には諦めという概念が無く、憎悪と、悲しみと、拒絶、この三パターンしか考えられない程度だったのかも知れない。
今はそれに笑いが入った。
これが良いこととは思わない、だが、レパートリは増えたのだ。確かに。
例えば未だ子供である貴方に、私がありえない言動をされたとして、アッハ、と笑う。例えば傍から見て、どうしようも無い貴方に、アッハ、と笑う。
しょうがないやっちゃなぁ、という言葉も次第に増えた。
結局のところ、「私はこういう性格だから、言いたいことは言ってしまいます(だけど此処までは言うけれどこの先は大人の貴方に私が言えるような立場じゃぁ無い、後は大人らしく大人である貴方が考えて下さい)」と言うようになった。
だけれど思うのは、こんなことを私が言う様な人に限って、この重要な括弧部分を理解出来る人であるのか、ということだ。
理解出来ない人に何かを隠した事柄を言っても、結局は隠された重要な部位なぞ理解出来ないのじゃぁ無かろうか。何故なら先ず出だしから理解がされていないからだ。そして其処まで理解の及ばない人に私が理解をさせようとするのも無駄なのでは無いか。
計り知れない言語世界の差と、計り知れない理解力と思考力の差だ。こういう言い方が悪いなら、差では無くて次元だろうか。
たまに私は、其の人の言う言葉が理解出来ない。
林檎に傷は付いていたろうか、未だ理解出来ない。貴方は少なくとも、私の中では、林檎では無かった。
さくま