
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2005年11月09日(水) ■ |
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| 夢見がちでいられるのはいたいから。 |
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たまに人から言われるのは、遊びと本気の区別が付かない奴、という事。 別に悪い虫に引っ掛かったとかそういう類いではなく。昔からそういえば、言われていた気がする。 単なるおふざけ、軽いいじり、それは勿論、遊びや余興の一種であり、戯れは悪い事じゃないと思う。 しかしそういった境界線が曖昧なものだからこそ、理解と妥協と任意と認識の互いにずれが大きくて、 限度というものが量り辛く、何処までを我慢と呼ぶべきなのか。呼んだその名で何を耐え忍べと。 いやなものはいや。主張すれば、遊びなのに、なんでわかんないかな、場を白けさせるだけの行為。 これだから絡みたくない、もうそういった付き合いをしない、それはどこか丸ごとを否定された気分。 空気を読み受け入れが必要な、時はあるだろう。それぐらいを読み取る事は出来るけど。生憎と。 だったら、全てを耐え相手方の思うが儘に己というものを押し殺して、それが望まれる事だからと。 あちらは遊んでいるつもりなのかもしれない。力を加減してくれているのかもしれない。 けれど突き刺さる力は痛くて、当てられる箇所は今でも疼いて、踏み躙られる笑顔は無残で、 そんなものの為にそんなものに成り下がっていいのだろうか。何を守る為の我慢になると。 その程度で取り繕われるものなら、きっと容易に手に入るのだろうからと、 簡単に手放す事を選択出来る、それも一つの無常の中に。合わせて生きる必要性を知りながら、 馴染めなくて断ち切る事をこの手は欲し、新たを手に入れる難しさを己特有に思い知りながら、 明日を夢見る気分で臨む。あほらしい。なんて、あほらしい事この上ない。
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