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春眠ハ正午ノ砲スラモ覚ヘズ - 2004年04月11日(日) 昨日は念願の隔週休みの土曜日ということで、前日からすっかり 臨戦態勢に入っていたのだった。 とにかく想像を絶するような、空前絶後曖昧模糊五里霧中魑魅魍魎的な 殺人的奴隷虐待的な忙しさにすっかり翻弄されて奔走して、身も心も ボロボロだったおれにとって、ようやく訪れた休日。 気分はまさに、一週間に十日来い〜トコトントコトン〜な五月みどり的 状況の中、ついにやってきたのだ。 金曜の夜。ビールとその他もろもろ各種つまみ連が絶妙なバランスで 突入したおれの胃袋は完全に「殿、ご満悦」な状態で、今週の激務を 西武池袋線の二駅の間に速やかに振り返りこれまた速やかに終了宣言し、 「ようし、来週からはもっとラクに生きるんだもんね」 と、東長崎の西友でネギをカゴに放り込みながら呟き、瞼の開放状態が 37%程度のヨチヨチ歩きで帰路に就いたのだった。 そして、この上ない充足感に満たされてもいたのだった。 それはまるで、ドミノ世界一大会に於いて最後の一枚を置き終わったのと 同じような気分であった。 あるいは、村さ来あたりで飲み干したビール瓶30本を横に並べて悦に入る のと近しい感情でもあった。 さしずめおれはローラ姫を救った勇者であり、冴島翠との愛を取り戻した 須藤晃(by“天使なんかじゃない”)であった。 と同時に、「立たないで、もうそれで充分だ」と熱唱したくもなったのだ。 (おれはどうやら泥酔して友人の留守電にチャンピオンをフルコーラスで 歌ってさしあげたことが数回あるらしい) 待っているのだ。 この道をまっすぐ、そう、ひたすらまっすぐ歩けば、待っているのだ。 この瞬間のために、おれは生きてきたといっても過言ではないのだ。 少なくとも今は。 そうだ。明日は若干違う方面でのために生きてきたと言ってもいいのだ。 生きている「意味」が大事なのではない。生きていることにどのように 折り合いをつけるかが大事なのだ。とおれは思う。 そんなことも思いつつ、岬くんのスライディングタックル並の勢いで おれは布団に滑り込んだのだった。 そして、目覚めたのが14時過ぎ。 なんとなく無駄に時間を消費してしまった感も若干残るのだが、 まあ、今回はこれでよしとしようではないか。 ...
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