アルの日記
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2002年11月01日(金) 情報脳

ふぅ〜、いかんいかん。
情報脳になってしまいつつある。
遠近感がやや崩れてバランス失いがちです。
まだまだ修行が足りないです、涙。

さてとタイプの練習。
以下は著名な建築家である安藤忠雄氏の発言です。
共同体関係についてですが、なかなか良いこと言ってるので暇だったら読んでみてください。

>家族と共に生活していく中で、互いにわずかずつ我慢し、譲り合う。そんな日常の中から、子供達は社会で生きていくためのルールを学んでいく。その意味で家庭での食事、その際の作法、躾などは人間を育てるための大切な一歩である。それが現在、日本の多くの家庭で完全に放棄されてしまっていると言うのだ。家庭崩壊の現実を、まざまざと見せつけられた思いだった。

家庭崩壊といえば、私が建築を志したばかりの60年代の頃、すでにその兆しを見せつつあった社会に対し、個の確立を前面に押し出したある建築家の提案「個室群住居」が随分と物議をかもした。彼は、社会−家庭−個人の図式が崩れつつあることを前提として、個人を単位とした新しい共同体の建築を目指していたのだと思う。「家族は名も実もなくなった・・・あるのは個人だけ・・・その住居として必要なのは、ただ個室の集まりに過ぎない」

現在、日本の一般家庭の住まいには、その質はともあれ必ず個室が準備されている。なるほど「個室群住居」は時代をよく先見した概念だったかもしれない。だが、それが果たして個の自立のために、新たな共同体のために何か成しえただろうか。私は「個室群住居」が私たちの生活環境にとってむしろマイナスの結果をもたらしたように思えてならない。

本当の個性、本当の自由は、自分と他者がいることを認め、理解する、そのような公の意識があって、初めて成立するものだ。個室で自分の世界に閉じこもってしまうことを、自立とはいわない。統計によると、このところ急増する登校拒否や不登校の子供の多くが四歳以前から個室を与えられた家庭で育ってきているというが、それもまんざら嘘ではないだろう。個の確立を言うならば、本当に必要なのは個室よりも個人が互いの意見をぶつけ合い、互いを理解しようと可能性を探るための対話の場、”居間”である。

米国の豊かさを拠り所にした戦後日本の誤謬

人間は本来的に社会的であるはずだ。生きている限りは必ず何らかの共同体に帰属し、またそれがその人の「私」の拠り所となる。家族とはその共同体のもっとも基本的な形であり、また家族こそが最も初めに、子供達に社会を、公の精神を教える場だった。それが崩壊しつつあると言うのだから、現在日本を騒がせている信じ難い事件、現象の数々も起こるべくして起こったといっても良いだろう。官僚による不正、ゴミ問題に象徴されるような環境破壊の問題、荒みきった子供達の教育環境、その一方で残虐さを増す一方の青少年犯罪。これら現代社会の病巣ともいうべき現象は、すべて人々の公共精神の喪失、自己中心的な個人主義に起因する。自分のことにしか興味を持てない人間、他者の存在など認められず、尊敬も出来ない人間の集まりが、健全な社会を営めるわけがない。家族、地域といった、善悪を判断する倫理、秩序を保つべき共同体の崩壊が、このような結果を招いてしまった。

日本人が共同体の力、公の心を見失っていったのは、やはり敗戦の時からだったと私は考えている。それまで心の拠り所としてきたものの一切が覆されたこのとき、人々にとって唯一確かなものに見えたのが、戦勝国アメリカの圧倒的な豊かさだった。50年代、日本はアメリカに夢を見たのである。大国の大量生産、大量消費の生活をまざまざと見せつけられた日本人は、アメリカの生活に羨望のまなざしを向け、物資に執着し、便利な生活を追い求めつづけた。しかし、当たり前のことだが日本とアメリカでは国土、資源、生活習慣とどれをとっても圧倒的な隔たりがある。それらを切り離して、ただ便利さと快適性だけを取り出そうとした、そこに無理があったのではないだろうか。

確かに戦後日本は、終戦時10代後半から20〜30代の、戦争に奪い尽くされた人々の必死の頑張りによって奇跡的な復興を成し遂げ、アメリカへの憧れは、その原動力としてよく機能していた。1980年代にはその国力を世界的にも高く評価され、世界各地で日本の社会システムが模倣されるといった現象までが起きるほどだったが、その後が続いていない。戦後日本を盛り立ててきた人々が晩年を迎えたこの頃をピークとして、日本経済は下降線をたどっている。分不相応な夢を見たつけが、戦後復興の立役者たちの引退とともに、押し寄せてきたといってもよいだろう。

もしこの半世紀をもっと自分達の精神性や文化的ルーツに見合った方向で、受け継がれてきたものを大切にしながら歩むことが出来ていたならば、今ほど病みきった社会は回避できたかもしれない。アメリカ型の生活を追い求める過程で日本人は何より大切な人間の生きる力を、そしてその力を育むべき共同体への信頼を失ってしまった。

個を見失った国に未来はない

元来日本は、庶民の力によって支えられてきたといってもよい。江戸から明治への移行においても、劇的としかいいようのない近代化、西洋化を一気に成し遂げたのは、一般の人々の力、江戸時代に頂点を迎えたと言われる庶民の文化水準の高さである。そして、その庶民の力を育んできたのが、島国ならではの家族、地域といった共同体の結びつきの強さであった。それなのに戦後日本は、それらすべてを否定することから始めたわけだから、日本人の人間力が衰えていくのも当然と言えば当然である。

失われた時代に育った子供達は、もはやこれまでの日本人とは異なる文脈に生きているといってよいだろう。個人から公の資質が完全に欠落してしまっている国に未来はない。今やるべきは、自らのよって立つ場所を見つめ返し再び公の精神を取り戻すこと、ただ消費するだけではない、地に足の着いた自分達の生活を見つけ出して一人一人の人間の力を再生することだ。


ふぅ〜、疲れた〜。
う〜ん・・・書きながらいろいろと思ったことがあるんだけど面倒くさいので省略。
さてと寝ますかな。







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