見つめる日々

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2010年10月05日(火) 
あまりの悪夢に飛び起きる。ぐっしょり寝汗をかいている。ぐったり疲れてしまった。迷わず起き上がる。一度仕切りなおしをしないと、とてもじゃないが眠り直せる気分じゃなかった。定期的に見る悪夢。起き上がれば、まただ、と分かっても、夢を見ている最中は毎回新しい。きっと、それでもきっとと信じている自分がいる。だから、ショックが大きい。
窓を開け、立ったまま煙草に火をつける。そうでもしなければやってられない気分だった。少しずつ落ち着いてくる動悸。徐々に周りの景色も認識できるようになってきた。私はデスクスタンドをつけ、椅子に座る。
できるだけ息をゆっくり吸い込む。そしてゆっくり吐く。それだけで悪夢が少しでも遠くなってくれるような、そんなの私の勝手な思い込みと分かっていても。そうしてどのくらいしただろう。トイレに起きた娘が、ぎょっとしたように私を見る。どうしたのママ。なんか起きちゃった。寝なきゃだめじゃん。そうだね。もうちょっとしたら寝るよ。うん。それだけ言葉を交わし、娘はまた、寝息を立て始める。
私は、とりあえず頓服を飲んでみる。そして、ハーブティーを入れようとお湯を沸かす。その気配に気づいたゴロが、小屋から出てきてこちらを見上げている。ごめんねゴロ、起こしちゃったね。私はゴロに手を差し伸べる。珍しい、というか初めてじゃなかろうか、ゴロが自分から擦り寄ってきた。私は彼女を手のひらに乗せ、しばらく背中を撫でてみる。私が背中を撫で終えると、彼女は顔を洗う仕草をして、それからまたじっとしている。何となく申し訳なくなって、彼女の餌箱からひまわりの種を一粒取り出し、差し出してみる。いらないよーというふうに鼻を引くつかせるだけで、受け取らないゴロ。私はその鼻先をちょいちょいと撫で、それから彼女を小屋に戻す。
ハーブティー、何を入れよう、と迷った挙句、レモングラスとペパーミントの葉を混ぜ合わせたものに決める。お湯を注ぐと、すっと涼やかな香りが立ち上る。
マグカップを持って再び椅子に座る。さて、どうしよう。少し迷ったが、こういうときは読みなれた本でも広げるのがいいかもしれない、と、長田弘の「私の好きな孤独」を開いてみる。「眠りを信じなければならない。なぜわたしたちは眠りの中で回復し、むしろ夢みるように生きることができないのか。眠るな、不眠の精神をもって生きよ、というような言葉は比喩としても不正確だ。わたしたちは神なしにも愛なしにも生きられるけれども、眠りなしには生きることはできないからだ」。その節を読んで、唸ってしまった。確かに眠りなしには生きていけない。でも、眠りを信じることは、今の私にはちょっとできそうにない。また本を閉じ、改めて違う頁を開く。「噂は、文字で口を尊ぶと書く。表意文字とは楽しいものだ。噂は啤とは書かない。とすれば、噂とはわるい言葉だ、口を卑しめる言葉だという通年こそ、もっと疑われてしかるべきであるかもしれない。」「どんなに戸締りがのぞまれようと、噂は、時代の密室では生きられない人びとがどうしても見つけてしまう、密かな隙間のようなもの、隙間風によって運ばれてくる密かな酸素にほかならないものだ、と思う」「あたかも空気のように、よい噂わるい噂を吸ったり吐いたりしながら、そうやって、わたしたちは噂を親しく呼吸することによって、自分の時代を感じている。そして、風を感じるなら隙間があり、隙間があるなら戸があって、戸があれば戸ははずせるのだということを、あるいはしたたかに、あるいはしんみりと、あるいは漠然と、あるいは無意識のうちに、いつも密かに確かめてきたのだった。」「だから、噂は、世の閉塞がつよまればつよまるほどに、むしろいっそう迎えられてきたのだった。だから危機の時代や独裁の時代に、噂は、ほとんど表現の唯一の方法としての役割をになわなければならなかったのだった。」「噂のありようには、だから、のぞもうとのぞむまいと、つねに支配するものと支配されるものとの関係が、支配されない言葉という言葉のあり方を、こころの目安にしてうつしだされている。」「噂はありそうでない話でもないし、嘘のようなほんとうの話しでもないのだ。一歩その外へ踏みだしたならほんとうの話しになるかもしれぬ噂の話しである。口にだしたら嘘になってしまうほんとうのことを、口にだしていうのが、噂だ。だから、一歩その外へ踏みだしたならたちまち嘘になってしまうほんとうの話に絶えず冒されているわたしたちに、嘘だと思って聴く噂は、親しく息つけるものとなる。」そんな「街の噂」という章を読む。そういえば噂には私は小さい頃から本当によく悩まされてきた。勝手な噂、本当でない嫌な噂、諸々。人の噂も七十五日なんて言うけれど、その七十五日の間にもくもくと勝手に育った噂は、いつのまにか当たり前のことというかそうであるはずのこととして人の間に浸透してしまっていたりすることがある。それが、私には怖かった。十や二十の年の頃の話。さすがに今は、もうそんなもの、どうしようもないもの、として放っておけるようになったけれど、こうなるまでに四十年かかった。長かったなぁと私は改めて苦笑する。
父や母は、噂というものに対して、びくともしない人たちだった。それがどうした、人が勝手に言っていることだろ、と、ずばっと切り捨てることができる人たちだった。私や弟は、そんな母や父のそばで、縮こまって、いつでも噂に怯えていた。あの家は、あの家の人たちは、と、ひそひそ囁かれる街角の噂に、いつも怯え、走って逃げていた。幼い頃の思い出。
人の目が怖かった。容赦なく突き刺さってくる人の視線が怖かった。だから、逆に、背筋を伸ばした。怖ければ怖いほど、背筋を伸ばして、弟の手を引いて学校に行った。弟はもっともっと縮こまって、びくびくして、それが悔しくて、私たちが何悪いことをした、と、私は肩を怒らせて歩いたものだった。今思い出すと、苦笑するしかない。何をそんなに強張らせて生きていたのか、と、苦笑するほかない。
また他の頁を開いてみる。「バスに乗る。乗るとすぐにわかる。下町のバスには、下町の気分がある。郊外のバスには、郊外の気分がある。午後のバスには、午後のバスの気分がある。バスに乗ってくる一人一人がその街の性格をかたちづくっている。」「バスに乗る。すると街というものが、ちがって見えてくる。街を真ん中から見る。目線もちがう。ふだん見ない視覚から、街を見ている。部分としての街ではない。意識しようとしまいと、あるまとまりを生きている街を見ている。そのとき、バスの窓から見ているのは、その街のすがた、その街の器量だ」。この部屋に住むようになって、私たちは自転車かバスを使わなければ駅に出られなくなった。雨の日や遠出するときはだから必ず、バスに乗る。バスに乗ると、確かにその時間帯によってバスの中の様相は違うし、車窓から見える様相も異なってくる。光の具合も違えば、風の匂いも違う。人の匂いも全く異なる。私は早朝のバスに乗ることが一番多いが、でも、好きなのは、午後のバスだ。私の乗る路線は老人が多く、午後のバスはたいてい老人で席が埋まっている。その合間にちょこねんと座っていると、このバスは何処へ行くんだろう、という不思議な気分に陥ることがある。駅とかバス停とか、そんなもの素通りして、そのまま人生の道を走り抜けてゆくのではないかという錯覚に陥ることがある。そんな錯覚を味わえる午後のバスが、私は好きだ。
ふと時計を見ると、ありゃ、午前四時半。すっかり読書に嵌ってしまった。でも、久しぶりだ、何も余計なことを考えず文字に埋もれて時間を過ごすことができたのは。爽快な気分で私はもうひとつの窓を開け、ベランダに出る。まだ闇色の空。薄い雲がかかっている。でも今日は晴れると天気予報が言っていたっけ。
デージーは、まるで、私を見て、と言っているかのような咲きぶりで。だから私は彼女たちをじっと見つめる。一輪一輪、見て回る。そして次にラヴェンダー。ラヴェンダーは、だいぶ肉付きがよくなってきた。肉付き、というのもおかしいかもしれないが、葉の厚さが厚くなってきた、という意味。しっかりした葉がにょきにょき出てくるようになった。これで花芽がついてくれたらなお嬉しいのだが。なんて、ちょっと贅沢なことを思ったりする。
弱っているパスカリ。それでもこうして新葉を伸ばしてきてくれるのだから、それだけでも嬉しいというもの。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。蕾が米粒ほどに育ってきた。そしてぐいぐいと枝はまだ伸びる気配で。小さな茂みで唯一、この枝だけが飛び出している。
友人がくれた枝。蕾が下の花弁の色をはみ出させ始めた。あぁ、もうじきだ、もうじき咲いてくれる。この週末くらいにはきっと。紅色の、濃い紅色の花弁。
横に広がって伸びているパスカリ。どうにかこうにか、三本の支え棒で挟んでいるひとつの枝。それでも重みでずるずる下に下がっていってしまう。もう仕方ない。このままでいくしかない。その先についているふたつの蕾。だいぶ膨らんできた。
そのパスカリの隣、挿した、これは多分ホワイトクリスマスだろうと思うのだが、その枝の一本が新芽を出してきた。一本は、これはもう、駄目だろう、茶色くなりかけている。残念。
ミミエデンは、ふたつの蕾を抱えて立っている。もうじきぱつん、と蕾は開いてくるだろう。そんな気がする。
ベビーロマンティカ、中央の花はまだちゃんと開かない。そして他の蕾たちが順調に膨らんできている。このままじゃ追いつかれちゃうよ、と私はちょっと中央の蕾を急かしてみる。が、返ってきた返事は、ふんふんふん、という鼻歌だった。まぁ自分のテンポで咲くのが一番いいんだもんね、と、私は苦笑しながら花をそっと撫でる。
マリリン・モンローは、いつの間にかみっつめの蕾もつけていた。ひとつの蕾はもう外側の花弁を見せ始めており。それはホワイトクリスマスも同じ、ひとつの蕾が、下の花弁を見せ始めている。そして、昨日のうちに、とうとうマリリン・モンローの背丈を抜いてしまった。ぐいぐい、ぐいぐいと育ってきた枝の先、ひとつの蕾がついている。まだ小さい蕾。
アメリカンブルーは今朝、まだ花は開かせていない。でも、蕾がみっつあるから、多分みっつは花が咲くんだろう。
ムスカリやイフェイオンは、黙々と育っており。私たちのことなんかどうせ構ってくれないんでしょ、という突き放した雰囲気。どっちが突き放しているのかこれじゃぁ分からない。私は苦笑しながら、そんなことないよ、と声に出して言ってみる。
部屋に戻り、五時に起こしてと言っていた娘に声を掛ける。娘は微動だにしない。また三十分経ったら声を掛けよう。私は、とりあえず朝の仕事の準備に取り掛かる。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。玄関の扉を閉め、私は徐に小学校の校庭を見やる。市の陸上大会が近いから、毎朝選手が練習している。腿上げ走りをしている子がひとり。をを、懐かしい、と思いながら、私は彼女の練習にしばし見入る。私が大会に出る折も、この腿上げを、これでもかというほど練習した。体が勝手にその形で走れるようになるくらい練習したものだった。私は心の中、彼女に声援を送る。
階段を駆け下り、自転車に跨り、走り出す。
坂を下り、信号を渡って公園前へ。今朝はちょっと出遅れたせいか、犬の散歩の人たちで賑わっている。私はそれを避けて、そのまま走る。
大通りを渡って、高架下を潜り、埋立地へ。間違いない、ギンナンの匂いだ。と思ったら、ビニール袋を持った婦人が、ギンナンを拾い集めている。私はその邪魔をしないように、大きく逸れて走る。
大通りの横断歩道を渡り、左折。そのまま一気に走る。空は水色じゃない、鼠色。でも、雲の割れ目から漏れ出た光が煌々と街を照らし出している。
駐輪場で駐輪の札を貼ってもらい、自転車を停める。
さぁ、今日も一日が始まる。ちょっと出遅れたのを取り戻すために、私は一気に階段を駆け上がる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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