見つめる日々

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2010年09月14日(火) 
起き上がり、窓を開ける。一面鼠色の雲が広がっている。今にも雨が降り出しそうだ。風は微かで、街路樹の緑も、小さく震えるだけ。
しゃがみこみ、デージーを見つめる。デージー同士で、絡まりあって、もう解きようがなくなっている。ちょっと目を離したすきにこうなってしまう。何だか申し訳なくなる。ラヴェンダーはマイペースで、這うように横に広がっており。その節々から、新たな芽を出している。
弱っている方のパスカリ。それでも新芽を僅かずつだけれども芽吹かせており。空を見上げながら思う。これから少しでも涼しくなってくれれば、樹も元気を取り戻してくれるかもしれない、と。そうなってほしい。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。ふたつの蕾が桃色になった。この花の色は本当に、ピンクというより桃色、という言葉が似合っている。
友人から貰った枝を挿したものは、ひとつが新葉をいっぱい出しており。もうひとつは蕾をつけている。まだ小さいけれど、ぴんっと天を向いて立っているその蕾。どんな色が咲いてくれるのだろう。楽しみだ。
横に広がって伸びているパスカリは、それぞれの枝の先っちょから、新葉を広げ始めた。蕾はまだないようなあるような。分からない。
ミミエデン、一輪がきれいに咲いた。鋏でそっと切ってやる。でも。ちょっと目を離した隙に、また吸血虫たちが葉の裏に憑依してきているような気がする。私は丹念に、葉を撫でる。それでも足りず、薬を吹き付けてみる。
ベビーロマンティカも、みっつの花が咲いた。ぽっくり、ぽっくり咲いた。まぁるいその花の形。独特だ。続いて残りの花たちも膨らんできている。
マリリン・モンローのひとつの蕾が綻び出した。ほんのりクリーム色の花弁が美しい。鼻を近づけてみると、ふんわり甘い、やわらかい香りが漂ってくる。もうひとつの蕾は、まだ固く閉じている。これから、だ。
ホワイトクリスマスを見ると、蕾がひとつ、小さい小さい蕾がひとつ、新葉の間に生まれているのに気づく。あぁ、またホワイトクリスマスの花に会える、そう思ったら嬉しくなった。新芽の固い固い気配も、あちらこちらに見られるようになっている。
アメリカンブルーは、今朝ふたつの花を咲かせており。微風にふわふわ揺れながら咲いている。その真っ青な色は、この鼠色の空の下でも、ぽっと灯る明かりのようで。私はしばしそれに見入る。
部屋に戻り、お湯を沸かす。ポットいっぱいにふくぎ茶を作る。濃い目に濃い目に。そういえば昨日の夜、洗い物をし忘れていた。私は小さく舌打ちをする。洗おう洗おうと思っていたのに、ふっと忘れてしまっていた。
カップを持って椅子に座る。窓から滑り込む微風はだいぶ涼しくなっており。いくら見上げても、空の鼠色は薄れることはなく。このまま一雨来るのかな、と思う。
昨日は病院だった。医者に、眩暈というか貧血というか、あれは何なんだろう、痙攣ともまた違うのだが、体ががくがくっとなって倒れる症状のことを、一生懸命伝える。この症状は何処で診てもらえばいいのか、と。医者は首を傾げ、うんうん考えているのだが、なかなか応えてくれない。ようやっと、神経内科か脳神経外科に行ってみるのがいいかもしれない、と言う。でも、そこでも、どういう症状なのか、なかなか伝わらないと思うよ、と言われる。そう言われても、このまま放っておくわけにもいかないし、どうにかしないと、と私が言うと、精神的なものだと思うけどなあと、医者が呟くように言う。でもそれならそれで、先生、なんとかしてもらわないと、私、困るんです、と食い下がる。結局、近々どちらかの科に行ってみて、と言われる。また、薬が増えたことで何か影響は、と言われ、とりたててないが、と応える。医者はまたそこで、首を傾げている。あなたは薬の効きが、全般的に悪いのかな、と呟いている。そう言われても…と心の中で思いながら、でも黙っていた。
薬を受け取った帰り道、電車の中でいろいろ考える。今朝娘に抱きつかれた時、やってきた思い。私に触っちゃいけない、という、そういう思い。それは、自分が穢れている、と思っているから出てきた思いで。その思いに、私は改めて戸惑う。今更何を、と思うのだが、それでもまだ、私の周囲に付きまとっているらしい。
被害に遭ってから、「自分は穢れている」と、そういう思いが生まれた。あの事件で私はもう穢れてしまった、と。だからもう、私は普通じゃないのだ、というような。何が普通で何が普通じゃないんだ、と一方の私は言い返す。そんなの関係ない、私がひき起こした事件じゃないのだから、私のせいじゃないのだから、私は穢れてなどいない、そもそも、一人の人間を穢せるようなこと、ありはしない、と。でも、また一方の私が言う。それでも私は穢れた、汚い、おまえはもう汚いんだ、と。
その狭間で、私は悲鳴を上げたくなる。もうどっちだっていい、そんなことどっちだっていいから、私を解放して!と。悲鳴を上げたくなる。でも、そんな悲鳴、上げたって、誰にも伝わりやしない。だから私の悲鳴は、声にならない。
娘はよく私に抱きつく。ぎゅっと抱きついて、しばらく離れない。それどころか、私の胸と胸の間に顔を埋めて、ぎゅうぎゅう顔を埋めて、深呼吸しているときさえある。それが私を、ぞっとさせるのだ。あぁ、だめだ、私の周りの空気を吸っちゃだめだ、そうしたらあなたまでが穢れてしまう、と。だから私は、あの子が抱きついてきてくれるというのに、抱きしめ返せないでいる。
同時に、母のことも思い出す。私は、母に抱きつく、という習慣はなかった。娘のように、ぎゅうぎゅう母に抱きつくという習慣。そんなもの、なかった。むしろ母は、いつだって背中で拒絶していた。母の横顔はいつだって美しく、だから、私なんかが触れてはいけないもののように私には思えた。私はみそっかすで、生まれてはならなかった子で、だから私は彼女に触れてはいけないのだ、と。母に抱きついた記憶もなければ、抱きしめてもらった記憶も、私には、ない。
だからどうやって抱きしめ返せばいいのかが、私には、分からない。
そんな自分が、どうしようもなく悔しくて、情けないと思う。どうしてこんな簡単なことができないのだろう、と思う。ただ手を伸ばして、彼女の背中をぎゅっとしてやるだけのことじゃないか、と。なのに。その、その簡単なことが、私には、できない。
ひとしきり私の匂いを嗅いで、満足すると、娘は顔を上げ、にっと笑って離れていく。私はその彼女の肩の辺りに、私の影が、憑依してしまっているような、錯覚を覚える。その影は、私があの事件で得た影で。だから、払い落としたい衝動に駆られる。でもそれは錯覚で。だから私はどうしていいのか、全く分からなくなる。
性犯罪の一番怖いところは、こういうところなのかもしれない。人間の尊厳を、じわじわ、じわじわと侵食していく、崩壊させてゆくようなところが、ある。そういうところが、性犯罪の、一番、怖いところなのかもしれない。そのことを、改めて思う。
帰宅し、蒸し暑い中、仕事をしていたら気分が悪くなって、仕方なく横になる。横になってみたら、自分が思った以上に疲れていることに気づく。布団が沈み込んでゆくような感覚を覚える。そうしているうちに娘が帰宅し、おかえり、と私は声を出したのだが、私が横になっているのを見た娘が、いきなり、氷嚢を冷凍庫から取り出した。ママ、これやらなきゃだめだよ。私に有無を言わせぬ勢いで、それを差し出す。私は、とりあえず手元にあったハンドタオルをその氷嚢に乗せて、そのまま受け取る。
結局、私たちはしばらくして、クーラーの効いたファミリーレストランに一時避難することにした。そのくらい、私の体が疲れていた。何でこんなに疲れているのだろう。疲れるようなことをした覚えはないのだが。私は首を傾げる。娘はそんな私の向かい側で、せっせと宿題をこなしている。
ママ、今ね、私、奈良時代やってるんだ。どういうのが出てくる? 口分田とかね、荘園とかね、あと、わかんないや。わはは。わかんないって、それ全部覚えなきゃだめなんだよ。分かってるけどさー、習ってない漢字ばっかりで、困っちゃう。歴史はね、そういうことが多いんだ。何度も書いて覚えるしかないんだよね。めんどくさーい。仕方ないよ、そういう教科だから。あーあっ、でも、私、社会、そんな嫌いじゃないんだ。そうなの? うん、理科の方が苦手。どうして? 社会はただ覚えればいいけど、理科ってよくわかんない。そっかー。ま、どっちかだけでも好きであればいいんじゃない? ママって暢気だねー。そ、そうですか? うん、勉強両方できなきゃ、だめじゃん。いや、そうかもしんないけど。まぁ、どっちかだけでも好きであれば、ママはとりあえず、いいと思うけど。じじばばはそうは言わないよ。あぁ、まぁ、じじばばは、ね。偏差値で55以上取ったら、本一冊買ってくれるって約束したんだ。ママも約束してくれる? いや、ママは、検討する、ってとこで留めとく。えー、ずるーい、いいじゃんいいじゃん! ん、考えとく。考えといてよっ。わかったわかった。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れようとしたとき、雨が降り出したことに気づいた。ありゃ、雨降り出したよ。このくらい、どうってことないじゃん。ま、そうだけど。自転車乗れるよ。そうだね、このまま行っちゃうか。うん、じゃぁね、いってらっしゃい。いってきまーす。
階段を駆け下り、ゴミを出して、自転車に跨る。確かに、この程度ならどうってことはない。雨粒が頬に落ちてきたからって、困るわけでもないし。私はそのまま走り出す。
坂道を下り、信号を渡って公園の前へ。今日はちょうど公園の掃除の日らしい。たくさんの小型トラックが、公園の中へゆっくりと入ってゆくところ。
私は公園に入るのを諦め、そのまま大通りを渡る。高架下を潜って埋立地へ。空き地だったところに、たくさんのトラックが止まっており。あぁここも工事が始まるのだ、と知る。そうやってこの埋立地も、ビルで埋まってゆくのだ。寂しいような悲しいような。何ともいえない気持ち。
駐輪場、おはようございます、と声を掛ける。おじさんがたたたっと事務所から駆け出してきてくれて、駐輪の札を貼ってくれる。いってらっしゃい!と声を掛けられ、私も、いってきまーすと返事をする。
その頃には雨は止んで。見上げると、空の一部に水色が見え始めた。にわか雨だったらしい。
さぁ、今日も一日が始まる。私は、歩道橋の階段を、勢いよく駆け上がる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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