見つめる日々

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2010年08月05日(木) 
窓を開け放したまま横になる。もちろん蚊取り線香を用意して。でも、この蚊取り線香、役に立っているんだろうか。私は必ずといっていいほど、毎朝新しく蚊に食われている。特に足首がひどい。毎朝ひとつずつ増えていく気がする。それでも蚊取り線香がやめられないのは、この独特の匂いのせいかもしれない。祖母の家に夏泊まると、必ずこの香りがしていた。それを思い出すことができるからかもしれない。
蝉の声が間近で聴こえる。多分すぐ脇の街路樹のてっぺんにでも留まっているのだろう。少し寂しげな、でも大きな大きな声だ。
久しぶりに娘と休みが合い、二人で出かけることにした。娘に、前の日Nさんから頂いた本を差し出すと、最初不思議そうな顔をして覗き込んでいた。でもじきに、じっと、食い入るように本に見入っている。私はそんな娘を、向かいの席からじっと、見つめている。次いで、もう一冊の本も読みたいと言う。もう一冊の本は、正直躊躇った。リストカットについて描かれた著書だったからだ。でも、もういいのかもしれない。知っておいていいのかもしれない。そう思い、差し出す。
娘はじっと、細かな字に見入っている。そして唐突に、尋ねてきた。ママのその腕は、誰にやられたの? 誰にってわけじゃないなぁ。でもママのは、ここに書いてあるリストカットっていうのとは違う気がするけど。そうだね、リストカットにも、それぞれあると思うよ。気づいて欲しいと思ってリストカットをしてしまう人もいれば、自分の穢れがたまらなくて自分を切り刻みたくてやってしまう人もいる。他にもちゃんと話を聴けば、いろいろ出てくると思うよ。ママは、どうして自分が穢れてるとか思うの? そうだねぇ、その話は、あなたがもう少し大きくなってからしようと思ってるんだけど。今じゃだめなの? そうだね、今はまだ、ママには話しづらいから、もう少し待って。ふーん。
それからしばらく、娘は本を読んでいた。しかし、ぶつぶつ言っている。なんか違う、なんか違う、ママとは違う。娘はそう言っている。あぁそうか、娘は私の傷痕を心配して、それが知りたくてこの本を読みたいと言ったのか、と、改めて気づく。それならば、その本の中にはないかもしれない。私は心の中、小さく呟く。
クーラーのよく効いた喫茶店などにいると、私の傷痕は色が変わる。下の方から赤い斑点が浮かび上がってくる。その、浮かび上がってきた斑点を、娘が見つけ、いきなり指でなぞる。くすぐったいよ、と私が言うと、娘が驚く。ママ、くすぐったいの? だって前はくすぐったくないって言ってたじゃん。あ、そういえばそうだね、じゃぁ、くすぐったいって感じるようになったってことだね。へぇぇ、変わってくるんだ、腕って。そうなのかもしれないねぇ。私たちは小さく笑い合う。
くすぐったい。私は改めて、自分で自分の左腕をなぞる。感触がある、ということは、こんなに大きなことなのか、と、驚く。つい最近まで、なぞられていることは分かっても、くすぐったいとか軽いとか、そういった感覚はこの腕にはなかった。それが一体いつ、戻ってきたんだろう。いや、本当に、戻ってきた、甦ってきたとしか言いようがない。
不思議だ。こうやって、少しずつ、本当に少しずつだけれど、甦ってくるものなのか。もう二度と戻らないと思っていた感覚。それがほんの少しかもしれないけれど戻ってきた。私は娘に隠れて、何度か左腕をさする。
そうして私たちは、映画を一本見て、その後あちこちを自転車で走り、帰宅した。汗びっしょりになって帰ると、暑いはずの部屋の中がひんやりと感じられた。窓を開けると強い風がびゅぅぅと吹き込んできて、一気に私たちの汗を拭って行った。
夜になって、西の街に住む友人と話す。もし本当に本を出すのだとしたら、本という形になるのだとしたら、どこへ向けていきたいか、ということについて。あれこれ話す。友人が一言、当事者に向けるのは、きついと思う、と呟く。彼女の呟きは、鋭く私を射る。あぁ、そうか、そういう目を私は忘れていたかもしれないと気づく。声を上げられないことを、責めてしまう人が出てきたら、それは意味がない、と。そうだった。本当にそうだ。それでは全く意味がない。
声を上げようと上げまいと、そんなことに大した違いはない。今その状況に陥っていることが、どれほど苦しいのか、どれほど痛いのか、それをもし身近で分かってくれる人がいたならば。これほど心強いことは、ない。
私は彼女と話し終えた後、夜空を見上げた。この夜の闇の中、ぐわんぐわんと、みんなの叫び声が呻き声が充満しているようだった。声なき声が。
夜明けと共に起き上がる。開け放した窓から、相変わらず心地よい風が吹き込んできており。娘は気持ちよさそうな呆けた顔をして眠っている。
ベランダに出、髪を梳いて一つに結わく。少し迷って、今日も髪を上げてしまうことにする。そうしてラヴェンダーのプランターの脇、しゃがみこむ。
絡まり合ったラヴェンダーとデージーの枝葉を、私は丹念に解いてゆく。デージーは花びらが散るのではなく、花が終わるのだな、と、ひしゃげ始めた花を見ながら思う。せっかく解いた枝葉が、また強い風に煽られる。私は苦笑しながら、それでも一通り、枝葉を解く。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。根元からくいっと枝葉が出てき始めた。それは相変わらず細いのだけれど、それでも勢いよく伸びてきている。私はその先端をちょんちょんと指で突付いてみる。柔らかい感触が、私の指の腹に伝わってくる。
パスカリの、根元から伸びてきた枝葉。まだ若々しい色味でぐいっと天を向いて立っている。もしかしたら、もしかしたらだけれども、この先端の小さなぽっちは、花芽かもしれない。私は一点を凝視する。もしかしたら、そう、多分。
もう一本のパスカリは、横に横に伸び出している。花を切り終えて、さて、今度はどこから伸びてくるんだろう。ちょっと形が歪で心配だけれど、まぁ、枯れてさえくれなければ、何とかなるというもの。
友人から頂いた花束から挿した枝。もう六枚を越える数の新葉を出している。赤い縁取りをもった新葉。ガンバレガンバレ。私は心の中、声を掛ける。
ミミエデンは、ひとつの蕾を大事に抱え、また新たに新葉を出してきている。紅色に染まった葉が、風に揺れている。まだまだ小さな樹だけれど、それでもこうして踏ん張ってくれているんだなと思うと、いとしさも倍増する。
ベビーロマンティカは、また新たな蕾を膨らませ始めた。君のこの元気は、一体何処から沸いてくるんだろう。私は首を傾げてしまう。次々新芽を芽吹かせながら、同時に花芽もつけ、そしてひとつひとつちゃんと花を咲かせてゆく。途切れが殆どない。私もこの樹を見習わないと。なんて、思ったりする。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンロー。それぞれに新しい枝葉を伸ばしており。ホワイトクリスマスは一箇所からぶわっと今、新葉を広げ出した。マリリン・モンローは三箇所から。そのどれもが、きっちり天を向いている。きりりと風に向かって立っているその姿。凛々しくて、惚れ惚れする。
そしてアメリカンブルー。今朝は二つの花を咲かせてくれている。見上げる空はいつのまにかきれいな水色に染まっており。雲ひとつない空。その空の色にくっきり映えるこの青色の小さな花。
私は部屋に戻り、お湯を沸かし、生姜茶を作る。そういえば昨日娘にカルピスを買ってやったんだった。思い出して、娘用のカルピスを作り、冷凍庫に入れておく。こうすれば、娘が起きてくる頃、しゃりしゃりとしたカルピスが飲める、いや、食べられるだろう。
私は煙草に火をつける。椅子に座り、PCの電源を入れる。最初に流れ始めたのはパット・メセニーのLast Train Home。私の大好きな曲のひとつ。
とりあえず朝の仕事に取り掛かろうか。

「幸ちゃんはすごいと思います。お母さんがいなくなって、さみしいのに、女だからってご飯を作ったりせんたくをしたりして、えらいと思います。幸ちゃんがいたから、家族がくずれなくてすんだんだと私は思いました。そうでなければ、家族はきっとばらばらになっていたと思います。
私は、お母さんがいなくなったらと考えると、何もできなくなると思います。だから幸ちゃんは本当にえらいです。
それから写真は、この二枚に感動しました」
娘の感想には、だいたいそんなことが書いてあった。本には頁数がふられていなかったのに、わざわざ頁を数えたらしい。しっかり頁数まで記してあった。その頁の写真を見ると、幸ちゃんの、にっこり笑いながらもしかと前を見つめる目が印象的な、そんな写真が載っていた。
私はそれを大事に折って、封筒に入れる。Nさんに届けたい。

じゃぁね、それじゃぁね。テスト頑張って。うん。手を振って別れる。
玄関を出るともうそこは光の洪水で。私は思わず目を閉じる。
階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道をさっと下って、信号を渡り、公園の前へ。ざんざんと上から降ってくるような蝉時雨。私は高く高く聳える樹たちを見上げる。この街中の、小さな森に、どれだけの蝉が集っているのだろう。池の縁に立ち、空を見上げる。美しい水色の空が茂みの向こうに広がっている。何処までも何処までも澄んだ水色の空が。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の木陰で信号が変わるのを待つ。青信号になった途端飛び出すようにして横断歩道を渡る。そういえばいつもより人通りが少ない。夏休みをとっている人もいるのだろうか。そんな季節だ。
海と川とが繋がる場所まで一気に走る。自転車を止め、私はしばし海を見つめる。濃紺の海と緑青色の川とが、交じり合う場所。鴎が一羽、すうっと港の方へ飛んでゆく。
さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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