2010年07月11日(日) |
はっとして起き上がる。今は何時で、何曜日だったろう。夢を見ていた、気持ちの悪いおどろおどろしい夢だった、それだけを覚えている。私は慌てて手元の時計を見、時間と曜日を確かめる。あぁそうか、今日は日曜日で、まだ午前三時。別に寝過ごしたわけでも、日にちを飛ばしたわけでもない。大丈夫。 隣に娘はいない。今頃じじばばの間で、くうくう寝息をたてながら眠っているはず。私は窓を開け、ベランダに出る。もわんとした空気。そして垂れ込める雲。 そういえばミルクやココアたちはどうしているだろう。昨日は遊んでくれる娘がいなかったから、さぞや退屈しただろう。そう思いながら籠に近づく。すでにココアは小屋から出てきており、籠の入り口にがっしと齧りついている。おはようココア。私は声を掛けながら扉を開け、飛び出してくるココアの体を受け止める。左目の具合を見る。まだ右目と大きさは異なるものの、この具合なら大丈夫だろう、と推測する。一時は獣医に診せなければいけないかなと思ったけれど。それにしても彼女は一体どこに目をぶつけたんだろう。籠の中、ぶつけてひっかかるようなものは何も置いていないはず。さっぱり分からない。そうしているうちにココアは私の腕を這い上がり、肩から肩へと移動し、もう一方の腕をたたたっと滑ってくる。そんなことしたら床に落ちるよ、と声を掛けながら、私は手のひらで彼女の体を受け止める。小さい。本当に小さい。ミルクやゴロと比べて、ひとまわりは余裕で小さい。この違いは何処から生じているんだろう。やはり食べる量なんだろうか。よく見れば、ココアの餌箱にはいつも、何かしらの餌が残っている。今朝も、穀類以外の餌は丸々残っている。一方ゴロやミルクの餌箱は空っぽで。やはりこの違いか。私は納得する。そうして、ココアの体の他の部分に異常がないことを確かめ、籠に戻す。 ミルクも起きてきた。おはようミルク。私は声を掛ける。でも、どうしてもミルクを手のひらに乗せることができない。噛まれることが怖いのだ。娘には一切噛むことがないのだけれども、私の手はがしがしと噛む。だから申し訳ないが、抱っこは我慢してもらうことにする。 ゴロはゴロで、後ろ足で立ってこちらを見上げている。私が手のひらを差し出すと、後ずさりする。仕方なく私は摘み上げ、ゴロを手のひらの乗せる。しかし、ゴロはすぐ、うんちをするのだ。しかもゆるゆるのうんちを。今朝もやっぱり早々にうんちをしてくれた。私は仕方なく、背中と頭だけ撫でて、彼女を籠に戻す。そうして手を洗う。 再びベランダへ出、辺りを見回す。灰色の空、灰色の町。全体が灰色にぼやけて見える。私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこみ、中を覗き込む。今朝もデージーは明るい色を放って微風に揺れている。そしてラヴェンダーは、細く長く伸びた枝葉が、プランターからはみ出そうな具合になっており。ここで一度切ってやるのがいいのかもしれない、とふと思う。どうしよう、切ろうか切るまいか。母に一度相談してからにしようか。ラヴェンダーというと、どうしても母の庭のラヴェンダーを思い出す。あの、両腕を伸ばしても抱えきれないほどの大きな大きなラヴェンダーの束。まさに束、といった具合に群れて咲いている。見事な茂み。何種類ものラヴェンダーが、庭のあちこちでそれぞれに咲いている。私が庭を持つことはあり得ないだろうけれど、もし庭があったなら、あんなふうにラヴェンダーを育ててみたい。そう思う。 小さな挿し木を集めたプランターの中を覗く。一本、葉を出したのに枯れ始めたものがいる。あぁぁ、と私は溜息をつく。これもまた、駄目になってしまうのか。そう思うと切ない。でも、まだ抜くには早いはず。そう思って枝をちょっとひっぱってみる。すると、思ってもみなかった反動が指に伝わってくる。これは、根だ。根が生えている。私はどきんとする。根が生えてきたというのに、上は枯れてきてしまったということか。なんてこったろう。私は唇を噛む。何とかならないものか。でも、この行方を知っている者は誰もいなくて。私はただ、彼らが生きて死ぬのを見守るしか、ない。 ミミエデン、沈黙の時間。どこにも新芽の気配はなく。ただじっと、プランターの隅、佇んでいる。私とミミエデンは、実は相性が悪いんじゃなかろうか、とふと思う。いくら一生懸命見守っていても、いつも枯れてしまう。私の元では、彼女はうまく育ってくれないんじゃなかろうか。これなら母のところにでも嫁に出してあげた方が、ずっとミミエデンのためになるんじゃなかろうか。そんなことさえ思ってしまう。でも。 私はミミエデンの花が、好きなのだ。あの小さくても彩り豊かな、ピンク色から白へのグラデーションを描く小さな小さな花が、大好きなのだ。だからもう一度でいい、あの花を、見たい。 ホワイトクリスマスとマリリン・モンローも沈黙の時間。今のところ新芽の気配はなく。ただじっと、そこに佇んでいる。しんしんと立つその姿は、こちらの心をまるで見透かしてしまうような、そんな強さが在る。 ベビーロマンティカから出てきた新芽は、これまたかわいい、萌黄色の赤子。小さな小さな手をちょこねんと今、突き出しているところ。その初々しさは、艶々と輝いて、この灰色の空の下でも、鮮やかに輝いて見える。早く出ておいで。待っているよ。私は心の中、そう声を掛ける。 パスカリの、花芽をつけている一本は。細っこい枝葉を必死に広げ、蕾をまるで守るようにしながら立っている。たったひとつの蕾。昨日よりまたひとまわり、大きくなった。本来ならもっともっと大きくなるはずの蕾だけれど、この細い枝にくっついているのだもの、小さくて十分。あまり枝に重荷になる前に、咲いてほしいと思う。 もう一本のパスカリは、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹と共に沈黙している。こうしてみると、今沈黙している樹の何と多いことか。天候がこんなに不安定では、安心して枝葉を広げてもいられないということなんだろうか。それとももっと、私の方に落ち度があるんだろうか。私はじっと、パスカリの枝葉を見つめながら考える。しかし、何も思いつかない。 昨日会った友人に、突然言われた。おまえは年々幼くなっていくような気がするなぁ。何それ? いや、若くなるのは無理なんだけど、何だろう、こう、気持ちが柔らかくなっていっているような、そんな感じを受けるよ。それは褒め言葉? だと思う。なら、ありがとう! ははは。 先日娘をディズニーランドに連れて行ってくれた友人の一人だ。高校の頃からのつきあいだから、一体もう何十年のつきあいなんだろう。二十年以上は年月が流れている。その間、本当にいろいろなことがあった。そもそも、友人は、自主制作の映画作りに私が参加し、それを陰ながらサポートしてくれた人の一人だった。当時は人を介してしか、話をすることもなかったが、私が就職したのを機に、親しく交わるようになった。 事件が遭って、私が発病して、それからも何かにつけ、私を外に出るよう誘ってくれた。どうしても駄目なときは、家までやってきて、飯を食おうと一緒に食卓を囲んでくれた。私が倒れたとき、何も言わずに介抱してくれたこともあったっけ。私がリストカットの嵐に見舞われている最中にやってきた彼が、何も言わずに手当てをしてくれたこともあったっけ。思い出すときりがない。お互い家庭を持って、それぞれの人生を歩むのかと思っていたら、私が離婚し、子供を一人で育てなければならない状況になった。そうしたらそうしたで、どうやって私の子育てを楽にしてやれるか、というようなことを、あれやこれや企画しては実行してくれる。だから娘にとっては、友人は父親でもお兄ちゃんでも友達でもない、何だか分からないけど特別な存在、というようなふうになっている。ありがたいことだ。 恋はしないのか。っていうか、出会いがないよ。出会いかぁ、俺の方が外に出てるわけだから俺に出会いがあったっていいのに、全然ないもんなぁ、お前に新しい出会いがあるわけもないかぁ。はっはっは。そうだよぉ。でもこの前娘ちゃんと遊んで、思ったぞ、娘ちゃんは、いつ母ちゃんに恋人ができても、それはそれでちゃんと喜んでくれる子なんだろうな、って。ええー、どうかなぁ、それは。いや、あの子はちゃんと分かってる。母ちゃんが幸せなら私も幸せ、ってなもんだよ。ふぅん、私にはちょっと分からないけど。だから早く恋人でも何でも作れよ。同性の友達は増えてくんだけどねぇ、異性はねぇ、どうもだめねぇ。まだ事件が尾を引いてるか? いや、それはないと思う、そういうことじゃなくて、何だろ、まぁ単純に、要するに、出会いがないってことだよ。それにさ、何だろうなぁ、娘を一人前にするまでは、そんな余裕もなさそうだし。そんなんだからだめなんだよなぁ。え、だめなの? 男作って、その男に何でもかんでもおっかぶさるぐらいの勢いがないと、男捕まえらんねぇぞ。あ、そっか。ははは、無理だ無理。なんていうかさ…ハンディが大きすぎるよ。ハンディって何だ? 私は子持ちでバツイチで、病気持ちで。もうそれだけで、重くない? んー、それで重いって奴は最初から頭数に入れない。はっはっは。そうすると、がががーんと人が減るよ。はっはっは。でも、そんなもん関係なくなるくらいの魅力は、お前は持ってると思うよ。うわー、すごい褒め言葉だ。いや、自信持てよ。いや、持てない。ははは。だめだ、こりゃ。だめだね、ははは。 夜、娘に電話をすると、すっかり熱も下がったようで。平熱以下しか熱がないよ、と笑っている。私もその笑い声を聴いて安心する。
お湯を沸かし、お茶を入れる。友人から貰ったハーブティーの一袋を開けて、入れてみる。ミントの香りがふわりと漂ってくる。すっとした味が喉の辺りに広がる。 何となく人の気配を窓の外に感じ、ベランダに出て通りを見てみると、何人もの老人たちが、学校の方に流れてゆく。あぁ、そうか、今日は選挙の投票日だった。こんな朝早くから行く人たちがいるんだなぁと、改めてその列を眺める。この列の先には、どんな結果が待っているんだろう。
友人と罪についての話をする。話していて、私は、自分自身を罪人だと思っているということに行き着く。確かに私は法を犯してはいない。しかし、人の心をこれまでどれだけ犯してきただろう。たとえば私がリストカットを繰り返すことで、それが映像となって心に刻み込まれ、そう、いわゆるトラウマになってしまった友人がいた。その友人はやがて私から離れていった。あなたが嫌いなんじゃない、でも、あなたといるとあのことを思い出して私は辛くなる、そう言って。たとえば私がたとえそれが病気の症状であったとはいえ、相手を傷つけ、距離を置かざるを得ない状況にさせた、そういうことが、どれだけたくさんあっただろう。法を犯していずとも、人の心をそうやって踏みつけにした、切り刻んだ、それもまた、或る意味での罪じゃぁないのか、だったら私は、れっきとした罪人なんじゃぁないのか。
私は玄関を出、階段を駆け下りる。いつの間にか何人もの人たちが、小学校へ向かって歩いている。私は自転車に跨り走り出す。小学校の体育館脇を通ると、開け放たれた扉の向こう、並ぶ箱が見えた。 そのまま走り、坂を下って公園の前へ。自転車を乗り入れ、公園の中の小さな急坂をのぼる。そうして現れる池の端に立って、辺りを見回す。今朝は猫も千鳥もいない。私は空を見上げる。ぽっかり空いた茂みの間から、灰色の空が見える。風も微風で、池の水が揺れることはなく。私は試しに小石を投げ入れる。途端にぱっと生まれる波紋。私はそれが消えるまで、じっと眺めている。 再び走り出し、大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。雲の向こうに、発光する太陽の徴が見える。あそこに太陽は在るのか、そう思いながら私は目を細め見上げる。今日一日この雲が晴れることはないんだろうか。世界はどこか、雲の向こう側。 真っ直ぐ走って走って、港へ。もう忙しげに巡視艇が出ている。向こうに大きな橋が霞んで見える。鴎が一羽、私の目の前を横切ってゆく。 さぁ、今日も一日が始まる。 |
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