2010年06月21日(月) |
娘の体を何度か押しやったような記憶がおぼろげにある。でもあまりに娘の体は重たくて、私は閉口したのだった。そうだ、確か二度ほどそうやって、ぺったりくっついてきた娘の体を押しのけたような。今娘は枕を抱いて、でーんと足を広げて眠っている。 起き上がり、窓を開ける。ついさっきまで雨が降っていたのだろう。アスファルトが濡れている。そして空気もみっしりと濡れている。それでも風が流れているせいだろう、ずいぶん楽だ。 昨日帰宅してからちょっと挿し木を増やしてみた。切り花にしたホワイトクリスマスの枝の残りと、友人から頂いた花の、一部の枝。成功するかどうかなんて、今の時点で分かるわけもないのだが、どうか少しでも育ってくれるといい。 ラヴェンダーのプランターを覗き込む。やはり六本目の枝は、駄目なようだ。新芽ひとつを残して、体全体が茶色くなってしまった。でもまだ抜くことはしない。新芽ひとつでも緑のうちは、土に挿しておく。他の五本は、みなそれぞれに枝葉を伸ばしている。そしてデージーもまた、ふわふわした葉を風にそよがせている。 ホワイトクリスマスは一仕事終えたせいなのか、いつもよりさらにしんと静まり返っている。御苦労様、私は声を掛ける。昨日挿した液肥を確かめ、私は枝を指で撫でる。またしばらく沈黙の日々が続くのかもしれないが、それでもこの樹の存在は大きい。我が家の樅の木のようだ。 マリリン・モンローはだいぶ膨らんできた蕾を、天に向けてまっすぐに伸ばしている。何枚かの葉がやはり白い斑点をつけている。そろそろ摘んだほうがいいのかもしれない。今日家に戻ったら摘んでやろうと決める。 ベビーロマンティカの蕾も、一番最初についたものがぱつんぱつんになってきた。明るい煉瓦色の花びらがもう見えている。残りの二つも順調に大きくなってきている。萌黄色の新葉は艶々して古い葉よりさらに一段明るい色味を発している。今日も賑やかにおしゃべりしているかのようなこの樹。この樹を見ていると、本当に心がほっとする。和やかになる。 ミミエデンは蕾をつけはしたものの、蕾が弱いようで。くてんとなっている。水が足りないんだろうか。いや、そんなことはない。ちゃんとこのプランターには水をやっている。というより、今必要以上にやったら葉がとんでもないことになる。さてどうしたものか。生きていてくれる限り花はいつか咲く可能性があるのだから、葉の病気を優先させるべきなのか、それともここは花を優先させるべきなのか。すぐには決められそうにない。 パスカリはパスカリで、一本の方は新芽を徐々に徐々に伸ばしてきている。しかもそこにはまだ白い斑点はなく。私はほっとする。このまま新芽を伸ばしていってほしい。祈るように思う。もう一本の方は沈黙を続けている。新芽の気配は、今のところ全く、ない。 昨日は展覧会会場で、懐かしい友人に会った。私が写真を始めた頃、よくモデルになってもらった友人だ。絵描きの友人。彼女と会うと、それがどのくらいぶりであっても、ぽんぽーんと会話のやりとりができて、本当に楽しい。おかげであっという間に時間が経ってしまう。友人は私の誕生日を覚えていてくれたらしく、プレゼントを持ってきてくれた。白いレースのチュニックで、私が着るのはちょっと照れてしまいそうなかわいらしい代物。でも、嬉しい。 あっという間に数時間が過ぎ、帰路へ。途中で友人と別れ、私はいつもの電車に乗る。娘が待つY駅へ向かう。 正直くたくただった。さすがに毎日この距離を往復するのは、私には疲れるらしい。へろへろになりながらY駅に着くと、娘がにかっと笑って待っている。このにかっという笑顔が曲者だ。私の心を鷲掴みにする。 本屋に立ち寄り、娘が前から欲しがっていた本を一冊買う。バスの中で早速それを広げ、読み始める娘。私はその隣で、ぼんやりと車窓を眺めている。 ねぇママ、じじって何ですぐ怒るの? あー、うん、じじは怒るのが役目だからね、いつでも怒ってるのよ。ママが小さい頃からそうだった。えー、いつでも怒ってるのって疲れないのかな。ははは、そりゃ疲れるんじゃない? 疲れるのになんで怒ってるの? うーん、それは多分、怒ってないとじじの威厳が保てないとでも思ってるからかもしれない。変なのー。ばっかみたい。はっはっは、そりゃまぁそうなんだけど。じじはね、そうやって家を守ってるんだよ。ふーん。 ばばと朝早く散歩したときにね、栗鼠にまた会ったよ。へぇ、こんな時期にも栗鼠に会ったの? うん、会った会った、木をね、びゅんびゅんのぼったりおりたりしてた。でね、私を見つけたら、ひゅんって消えちゃった。ははは、まぁそうだろうなぁ。栗鼠はすばしっこいからね。私は栗鼠より、ハムスターの方が好き! はっはっは。
西の町に住む友人と、話す。すべてを遣り尽くして愛猫を見送ることができたせいか、今はずいぶん落ち着いているという。お墓もちゃんと作ることができたよ、と、彼女が言う。よかったね、と私は返事をする。 彼女にとってあの愛猫は、本当に家族のようだった。目も見えない、歯もほとんどない、老猫をひきとった彼女。静かで穏やかな猫だった。だからこそ、彼女と一緒に暮らすことができたのだろう。私がアダルトチルドレンであるように、彼女もアダルトチルドレン。機能不全家族に育った。だからこそ家族に対する思い入れは強い。 その彼女があの愛猫を失って、どうなってしまうだろうと心配していたが。思った以上に元気だった。私はほっとする。そりゃぁしんどい思いが本当は胸の中渦巻いているのかもしれないが、それでも私に対して、大丈夫、と言えるほどになってくれている。そのことに私はほっとする。 一方、新しい命を授かった友人は、その命に対して戸惑っている。愛することができない、守りたいと思うことができない、と、そう手紙に書いてあった。でも。 愛さなければならないなんて、思う必要はないのだ。人はよく言う、自分が産んだ子どもなのだから愛することができて当たり前でしょう、と。とんでもない。当たり前なんかじゃない。愛は最初から用意されているような代物じゃぁない。 彼女も機能不全家族に育った。愛に飢えて育った。だからこそ、愛の居所が分からなくて当たり前なのだ。 今彼女はもしかしたら、そんな自分であることを責めているかもしれない。でも、責める必要なんて何処にもない。 愛は、育んでゆけばいいのだ。気づいたときにそこにふと在る、そんな代物であっていいのだ。 それよりも。私は彼女の体が心配だ。妊娠のせいで糖尿病になってしまったらしい。その処置も自分で為さなければならないという。それをしながら乳をやり、おむつを替え…。気が遠くなるような作業だ。大丈夫だろうか。彼女が先に倒れてしまいやしないだろうか。それが心配だ。
「内省の過程には解放がないのです。なぜならそれは、あるがままのものをそうでないものに変える過程であるからなのです」「凝視はそれとは全く違ったものです。凝視は非難を伴わない観察なのです。凝視は理解をもたらします。なぜかと言いますと、凝視の中には非難や同一化というものがなく、無言の観察があるからです」「事実を黙って観察しなければならないのです。そこには目的がなく、現実に起こっているすべてのものに対する凝視があるだけなのです」「内省は自己改善であり、従って自己本位なのです。凝視は自己改善ではありません。その反対にそれは、他人と違った特徴や記憶や欲求の対象を持っている自我、すなわち「私」を終息させるものなのです」「凝視の中には、非難も否定も容認も伴わない観察があるのです。その凝視は外部のものを見ることから始まります。それは物や自然をじっと見つめ、それらと親しく接触することから始まるのです。初めに、私たちの周囲に在る物の凝視があります。それは物や自然や人間に対して敏感であることであり、同時に自他の関係を意味しています。その次に観念に対する凝視があります。このような凝視―――それは物、自然、人間、観念などに対して敏感であることです―――は別々の過程から成り立っているのではなく、一つの統一した過程なのです。それはすべてのもの―――あらゆる思考、感情、行為をそれが自分の心に生じるたびに絶え間なく観察することなのです」「凝視は自我、すなわち「私」の働きを、人間や観念や物との関係の中で理解することなのです」
じゃぁね、それじゃあね。娘の手のひらの上に乗っているミルクの頭をこにょこにょと撫でてやる。ミルクは娘の手に乗っているときは本当におとなしい。そうして私たちは手を振って別れる。 階段を駆け下り、バス停へ。しばらく待ってやって来たバスに乗ると、とんでもなく混み合っており。私は何とかつり革に掴まって体を支える。 電車に乗り換え、川を渡る。川は灰色の空の色を映して暗い色をしている。それでも朗々と流れ。水嵩はそれなりにあるだろうか。波立つことも粟立つこともなく、淡々と流れ。私はその様をじっと、見つめる。 さぁ今日も一日が始まる。川のように生きてゆけたら、いい。 |
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