あららのつぶやき
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突然に去った友人に贈る言葉を Sさんが書いた ・・・・・・・・・・・ 通夜の夜は土砂降りの涙雨。 わが竹馬の友、右三君の死を天も慟哭しているかのようだった。 右三君との永い係わりが、悲しく、懐かしく想い出される。 振返れば今日に至る人生の大半を彼と共に歩んできた。 伊勢市立厚生小学校、厚生中学校、三重県立伊勢高等学校で共に学んだ。 小学生時代、伊勢神宮の自然の中でトンボ採り、魚釣りと自然に親しみ、また、当時の子供なら誰でも熱中したベースボールが懐かしく思い出される。 中学、高校時代、彼は、陸上の中・長距離の選手と活躍したため、やや、疎遠となった時期もあったが、共に家庭の事情から進学をあきらめて就職することとなり、更に深い係わりが始まった。 昭和35年、当時の日本電信電話公社へ、しかも、同じ職種の「電信」で入社した。 鈴鹿電気通信学園での6ヶ月の普通部電信科に入学し、朝な夕なに、あの懐かしい菩提樹と学園頌歌を聞きながら、中継機械化が進む電信部門のKPさん孔技術の習得に励んだものだった。昭和39年、社内訓練である第1回業務研修部は、三重県でたった2名の合格を、彼と私の二人で占めた。 中央電気通信学園に入学してからも卒業までの2年間は、同郷であったため帰省の行き帰りはいつも一緒、クラブ活動では、共に剣道部に所属し、あの寒い冬の朝の寒稽古に励んだことが懐かしく思い出される。 東京オリンピックを共に楽しんだこと、夏休みに2人きりで東北一周の旅に出たが、無計画の計画であったため宿泊場所を確保できず、八甲田山の山中でテントを借り宿営するはめとなったが、あまりの寒さのため革靴をはいたまま眠ったこと、翌朝、混浴の温泉が経験できたこと、また、卒業パーティでの社交ダンスに間に合わせるため、忙しい中をぬって新宿へ通ったこと等数えだすときりがない。 学園卒業後、彼は地元東海の営業部門で活躍、母子家庭だったため、同期の大部分が経験した本社勤務をあきらめて、伊勢と名古屋間の長距離通勤で頑張った。 惜しまれることは、リーダシップ、交渉力、業務見識と卓越していた彼が、三重通信部の業務課長時代、理不尽な上司により、陰湿ないじめに遭い、その後の活躍の場が奪われてしまったことである。 人を育てるのが上司の役目、逆に足を引っ張り、将来のある部下の活躍の場を永久に奪った理不尽な上司が憎い。また、それに歯止めをかけることもできなかった巨大組織。病根は一掃されたのかはなはだ疑問。 現在、いじめがマスコミをにぎわしているが、今も昔も社会の弱い者いじめ体質は無くなっていない。 その後不幸が更に重なり、平成4年の夏頃だったと思うが、あの健康だった彼が病魔に冒され、生涯、人工透析を続けなければならない身となったことだ。 普通ならこの時点で、人生の敗北者となるのであるが、彼の場合、健康を害した自分の経験を逆に生かして、 健康に関する研究、学習、闘病に努め、とうとう健康を提案する株式会社を創設するに至った。 その後、水を得た魚のようにその活動の輪を広げていったのは周知のとおり。 彼の死を悼んで訪れた多彩な人脈を見ても、彼と共に経営に携わる小学校の同級生の話からも会社が軌道に乗り始めており、これからというときに死去しなければならなかったことは無念であっただろう。 しかし、奥さんの話によるとその最後は、苦しんだ様子も無く眠るような穏やかな最後であったということを聞いて、何か救われた気がする。 早すぎる死であったが精一杯頑張ったゆうちゃん(幼時の呼称)よ! どうか安らかに眠られんことを心からお祈りする。 平成20年5月
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